南沙諸島への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)
ラサ島燐鉱株式会社の事業拡大に伴い、ラサ島のリン鉱石以外の新たなリン資源の確保が課題となってきた。1918年4月に行われたラサ島燐鉱株式会社の臨時株主総会の席で、新たなリン資源調査費として毎年10万円の支出が認められ、調査費の使途については社長の恒藤一任となった。 第一次世界大戦の末期、恒藤のもとを身元不明の一人の紳士が訪ねてきた。その紳士は恒藤に対して、「支那海洋中の某地点にリン鉱があるが、あなたの会社でその権利を買ってもらえないか?」と打診してきた。恒藤は買っても良いとしながらも、そのリン鉱石はいったいどこにあるのか尋ねてみた。しかし紳士は言を左右にして所在地を明かさないまま帰っていった。恒藤は詐欺の可能性が高い話だと感じながらも、何か引っかかるものが残った。 恒藤は親戚の軍医総監も務めた本多忠夫のもとを訪ね、事情を説明した上で南海でリン鉱石探査を行いたいので誰か海軍士官を紹介して欲しいと依頼した。結局、病気のため退役していた小倉卯之助が推薦された。病気から回復して海運業界に乗り出そうと考えていた小倉は、南海でのリン鉱石探査自体にも興味を持ち、恒藤の依頼を受けることにした。下手に話が漏洩してはラサ島燐鉱株式会社の不利益になるのみならず、国際問題にもなり兼ねないとして恒藤、小倉ともにお互いの家族にも知らせず、打ち合わせも極秘に進められた。出発に先立っては進捗状況を連絡するための電報で用いる暗号まで用意した。 問題の紳士はリン鉱石のありかについて「支那海洋中」としか話さなかった。つまりどこへ探しに行けば良いのかが解らなかった。しかし小倉は自らの海軍時代の経験などから西沙諸島付近、ベトナム付近の島々、南沙諸島のいずれかであると判断した。しかし西沙諸島は1909年に中華民国政府が併合を宣言していて中国側との国際問題を引き起こす可能性が高く、ベトナム付近の島々についてもフランス領インドシナとして領有問題は確定している上に、すでによく知られた島々ばかりであった。そこで残った南沙諸島を探検の目的地とすべきであるとの結論を出した。 1918年11月23日、夜明け前極秘裏に小倉らは東京月島を出港して南沙諸島へと向かった。12月30日に南沙諸島に到着して約2か月半の探査後、1919年4月初めに月島へ帰還した。調査の結果、5つの島にリン鉱石、グアノがあることが判明し、その全てが無人島であることを確認した。しかし小倉は南沙諸島にリン資源があると言ってもあまりにも散在しているので経営的に成り立つかどうか疑問であると判断し、また輸送上の問題点も指摘していて、鉱山開発には懐疑的な意見であった。 しかし恒藤は南沙諸島は優良なグアノ、リン鉱石を産出し、他の事業面から見ても開発に適していると判断した。1920年11月には第二回の探査隊を派遣し、第一回調査時に確認した5島のリン資源が有望であることを確認した上で、更に4つの島にリン鉱石、グアノがあることを確認した。なお1923年、未調査の南沙諸島の島々を調査した結果、2つの島にリン鉱石を発見して、合計11の島でリン資源の存在を確認した。 1921年5月、ラサ島燐鉱株式会社は調査した島々を「新南群島」と命名し、リン鉱石、グアノの採掘事業に着手した。同年、リン資源が確認された島々のうちで最も有望であると判断された太平島に鉱山施設等の建設を始め、翌1922年には本格的に日本本土への鉱石輸送を開始した。 なお恒藤らラサ島燐鉱株式会社は1918年から1919年にかけて小倉卯之助に南沙諸島のリン鉱石探査を行わせる以前の、1917年ないし1918年の早い時期に南沙諸島の調査に着手していた可能性が指摘されている。
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