南朝正史の記録と遼西領有説・渡海説
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「百済」の記事における「南朝正史の記録と遼西領有説・渡海説」の解説
上にあげた『宋書』『梁書』や、『南史』などの歴代南朝の正史は百済が遼西地方に領土を持っていたと記す。『南斉書』には該当する記述がないが、これは『南斉書』「百済伝」の前半部が現存しないためであり、元来は同一の記述があったと推定される。ただし、『南斉書』には、北魏が大軍をもって百済を攻め、百済の東城王がこれを撃退したという記事がある。なお南朝最後の『陳書』は外国伝が全く欠けているため、陳で知られていた百済についての情報は不明である。一方で『晋書』やその後の北朝側の記録にはこれに該当する記述が一切登場しない。一般的には、北朝の勢力が及んでいた遼西地方を、朝鮮半島南西部に根拠地を持った百済が高句麗の領土を挟んで支配するのは不可能と思われる。既に唐代以来、中国の学者はこの記述の解釈に悩んでおり、現代においても「奇怪な」説として史実とは見なされない。 この伝承の形成について東洋史学者和田博徳は、南朝の歓心を買おうとした百済が北朝に対する戦いの事実を捏造したことに端を発するという池内宏の見解を支持している。朝鮮史学者井上秀雄は、高句麗との対立のため遼西地方の政治勢力と海路を通じて連携したものであろうとし、また可能性としては371年の対高句麗戦の余勢を駆った百済が、前燕崩壊時の混乱に乗じて一時的に遼西地方を侵略することは十分にありうるともする。そして南朝側では、北朝への対抗上これをことさら誇張して記録したものと推定している。同じく朝鮮史研究者の矢木毅は、和田が主張するような百済による虚構の宣伝によるというより、夫余と百済を混同した南朝の修史官たちの杜撰によるとする韓国の学者余昊奎らの研究が妥当であるとする。 矢木の指摘によれば、南朝から唐代にかけての中国の史書には夫余と百済を混同したと考えられるものがしばしば見られる。これは百済が「南扶余」を国号としたという『三国史記』、『三国遺事』の記録とも関連している。矢木は自らの国号に「南」などの方角を含める意味はないことから、これは百済の自称ではなく後世から見た他称であり、元来百済が使用した国号は単に「扶余」であったと考えられるとし、このために後世この両者は歴史書の記述の中でしばしば混同されるようになったとする。事実として『梁書』「新羅伝」には「新羅は、百済の東南五千余里にある。」とあるが、実際の距離としては著しく過大である。つまりこれは、吉林省農安を根拠地とした夫余(北扶余)と百済(南扶余)を混同したものであると考えられる。また『新唐書』「百済伝」はその最後で「百済の地は、すでに新羅や渤海や靺鞨に分割されており、百済はついに絶えた。」と記しているが、百済領が渤海に分割された事実は無論なく、これも実際には渤海に分割された「百済の地」とは百済(南扶余)ではなく夫余(北扶余)を指していると考えられる。 矢木はこの混同こそが遼西領有説の土台となったのであるとする。吉林省に位置した夫余国は285年に鮮卑の首長慕容廆の攻撃を受けて一時滅亡し、その後西晋の支援を受けて四平周辺で復興したが、346年に再び鮮卑の慕容皝の攻撃を受け、五万余口が慕容氏の根拠地であった遼西地方に強制移住させられている。遼西地方にその後しばしば登場する余氏(餘氏)の勢力は、この時強制移住させられた夫余の人々の子孫であると想定される。この遼西地方の夫余の存在こそが、その後の百済(南扶余、王族は扶余ないし余を姓として用いた)との混同によって「百済遼西領有説」を生み出していったと考えられる。更にこの夫余と百済の混同は、百済が海を済って南下した夫余によって建国されたという『隋書』の記録の源流であるとも考えられる。 この混同は中国の正史に記録されたことで「史実」の中に組み込まれ、後の時代の中国や朝鮮の学者にも受け継がれることになったと考えられる。
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