冷房化と増備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 01:25 UTC 版)
この時期になると、国鉄・私鉄を問わず、通勤電車にも冷房車が導入されるようになっていた。急行「鷲羽」・「とも」の153系を充当した新快速は別として、1970年からは快速の113系の冷房改造も始まっていた。また、競合する各私鉄も1970年には阪急5200系・阪神7001形、1972年には山陽3050系と相次いで冷房付きの通勤形電車を登場させていた。そんな中で各駅停車の冷房化が行われることとなり、山手線・中央線快速・大阪環状線に続く4番手として、1974年1 - 3月に京阪神緩行線に冷房車が11編成77両投入されることとなった。これが高槻電車区への103系初配属である。このときから従来のように編成単位で投入するのではなく、東京向けのATC準備工事対応の高運転台制御車と京阪神緩行線向け中間車を新製、東京地区で制御車を差し替えて京阪神緩行線に投入するという手法を取るようになった。ただ、このクハ103形は前年に新製され、山手線と中央線快速に投入された量産冷房車で、ほぼ新車に近い車両であった。また、このとき導入された冷房車編成の戸袋窓には「冷房車」の文字とペンギンのイラストが入ったステッカーが貼り付けられ、冷房車であることをPRした。 以上のように、3次にわたって103系を291両(41編成+予備4両1編成)投入したが、1975年になっても明石電車区・高槻電車区には100両の51系・72系が在籍していた。これらを置き換えるため、同年の4 - 9月にかけてさらに103系を投入し、9月には新性能化を完了した この際には新製と山手線からの転属で103系を明石電車区に35両(中間車5両×7本)、高槻電車区に23両(中間車5両×4本+予備電動車1ユニット+予備付随車1両)を投入し、これに山手線ATC化準備工事制御車と差し替えた制御車22両が転入し、103系7連×11本とバラ予備M'M1ユニット+T1両(計80両)を編成して、京阪神緩行線の103系化を達成した。この結果同線の103系は52編成+予備4両1編成+バラ予備電動車1ユニット+付随車1両の計371両となった。このとき振り替えられたクハ103形は、初期の非冷房車ばかりで、このままでは中間車の冷房が使用できないことから、吹田、鷹取の両工場で冷房改造を施工すると同時に、間に合わない車両については乗務員室内に冷房制御スイッチだけ取り付けたり、冷房車編成の制御車を1両差し替えるなどして夏季を乗り切り、9月の新性能化後も、制御車冷房改造の予備車捻出のため、翌年2月末まで暫定運用を組んで対応した。 こうして、立ち消えになってしまった新系列車両計画ともども旧型車は全車営業運転を終了したが、最後まで残った旧型車の中にはクモハ51形が4両残っており、このほか、旧クロハ69のクハ55150番台も阪和線に転出した1両を除き全車最終取り替えで営業運転を終了した。 103系への統一後の京阪神緩行線は、1976年8月に高槻電車区予備車の付随車1両を森ノ宮電車区に転配された京浜東北線の制御車(入線時に冷房改造済み)に差し替え、1978年10月2日のダイヤ改正の際に、新造車と大阪環状線の予備付随車および山手線から転配された制御車に明石の予備車を活用して7両編成×2本+予備4両(計18両)を編成、通勤時の輸送力増強を図った。また、このころから1次改良車の冷房改造を実施、1981年にかけて6本42両の改造を実施した。
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