八十年戦争のはじまり
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「八十年戦争のはじまり」の解説
詳細は「八十年戦争」を参照 1568年6月5日、異端撲滅の名のもとにエフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世(沈黙公)は1567年4月時点でドイツに逃れて無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された。1569年には十分の一税を導入し、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした。 ウィレムが1568年4月に軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻したこの抵抗運動はネーデルラント独立戦争へ発展し、「八十年戦争」と呼ばれる長い戦いとなったが、これには12年間の休戦期間も含まれている。ウィレム軍は国王ではなく「奸臣」を標的としたものであり、同年5月23日にはヘイリヘルレーの戦いに勝利したものの、結局は低地地方北部の制圧に失敗した。ウィレムはフランスのユグノーに合流し、「海乞食党(ワーテルヘーゼン)」を組織して低地地方の沿岸を無差別に攻撃・略奪した。1572年4月1日には海乞食党が小都市デン・ブリル(オランダ語版、英語版)の占拠に偶然にも成功し、これを機に低地地方の港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月にはホラント州が反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えた。低地地方北部のホラント州とゼーラント州に海乞食党が足場を整えた後には低地南部から改革派が続々と流入し、徐々に2州の主導権を握るようになった。こうして低地諸州は、反乱2州と国王に従順な他の諸州に二分され両者間の抗争が始まった。北部2州のプロテスタント化は急速に進み、1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた。このとき、オラニエ公も初めてカルヴァン派の聖餐式に参列している。 1576年には給料の未払いから低地地方に駐留していたスペイン軍が略奪に走ると、スペインに協力的であった南部州も反乱州との提携に転じ、ヘントの和約(英語版)が結ばれた。和約は全部で25か条あるが、最初の3か条はとくにこの条約の基本性格を表していると考えられている。第1条ではスペイン王による無条件大赦を要求し、第2条では諸州の連帯と低地地方の平和維持を規定し、第3条では宗教問題など諸州の問題を解決するために全国議会を開くことを決めていた。しかし、この和約はまったく効果的な裏付けを欠いていた。そもそも約束された諸問題を解決するための全国議会は開かれなかったうえ、条約は北部と南部が互いに都合良く解釈する余地を残していた。たとえば、フェリペ2世の意向を気にする高級官僚は1576年11月9日付けの国王宛書簡で「和約」を容認したやむべき経緯を釈明したうえで和約の実施に際し、修正を加えることを示唆している。同様にオラニエ公ウィレムの側でも、側近がイングランド宛の書簡で宗教問題について、ホラント・ゼーラント両州ではまったく妥協する気がないことを述べている。このようにヘントの和約は一時的な妥協に過ぎず永続性を欠いており、状況の推移によって簡単に崩れる脆い地盤の上にあった。ただし、低地地方におけるカルヴァン派教会の創設はその後も進展しており、カルヴァン主義の「ベルギー信仰告白」が第一回改革派全国大会で確認された。 ヘントの和平は宗教政策や新総督ドン・フアン・デ・アウストリアへの対応などをめぐってホラントやゼーラントと他の諸州の意見が合わず崩壊し、1579年に南部のエノーとアルトワ両州による「アラス同盟」が成立すると、北部7州はそれに対抗して「ユトレヒト同盟」を結んだ。1581年7月、北部7州(ユトレヒト同盟)はフェリペ2世の統治権を否認した。これはしばしばオランダ独立宣言として扱われるが、あくまでもフェリペへの抵抗姿勢の表明であった。ただ、それこそがのちのネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の成立を準備したことは確かである。
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