入線当初
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「小田急1800形電車」の記事における「入線当初」の解説
1946年8月、クハ1851・1852が入線、その後に入線したデハ1801・1802と2両編成を組成し、同年10月から運用を開始した。同年12月にはさらに6編成が入線したが、これは当初は厚木線に配置された。1947年に入ってから2編成が入線し、小田原線に配置された。また、デハ1809と1810が逆向きに経堂に入ってしまい、再度国鉄へ戻り方向転換して戻されるということもあった。これらの車両は各線区にとっては初めての20m級車両であり、施設などは1800形の入線を機に改修された。とはいえ、戦時中に国鉄車両の入線実績があったので、あまり問題はなかったという。1947年11月に、相模鉄道の経営委託が解除されたのに伴い、デハ1806 - 1808とクハ1856 - 1858の6両は相模鉄道へ譲渡された。デハ1803 - 1805とクハ1853 - 1855の6両は小田原線で運用されるようになった。 一方で、63形を割り当てられた会社のうち、名鉄では3700系として運用されていたが、車両が大型過ぎるために運用範囲が限定されていたことから、十分に活用できていなかった。名鉄ではこれを東武と小田急に売却することになり、小田急には翌1948年12月に3編成が入線した。名鉄から譲受した車両はデハ1811 - 1813とクハ1861 - 1863と、それまでの車両の続き番号が配番された。当初より小田急に入線した車両では偶数番号の車両で制御電動車が小田原側に向いていたのに対して、名鉄からの車両は奇数番号の車両で制御電動車は新宿側に向いていた。また、回路や機器固定方式も、当初より小田急に入線した車両と名鉄からの車両では異なっていた。車両の向きについては方向転換の上、制御電動車が小田原側に向くように統一された。 なお、1600形とともに復興整備車として看板を掲げ使用されたこともある。1948年には1600形とともにノンストップ特急の車種の候補に挙がり、同年8月13日にデハ1805とクハ1853で新宿 - 小田原間100分での試運転を行い、車両性能的には問題なかったが、大柄でばね下重量も重い車両だったため、軌道の弱さに起因する動揺が大きく、実際に運行につくことはなかった。 桜木町事故発生後の1951年6月から、車体の強化とあわせて、2両の間の貫通路を拡幅の上で幌で連結する改修が行なわれた。これと同じ年に、欠番となっていた車両番号を埋めるように改番が行なわれ、デハ1809 - 1813・クハ1859 - 1863は元の車両番号から3を減じた番号に変更された。また、1953年には3段窓を2段窓に改造、その後も天井板設置や室内灯のグローブ新設など、戦時設計のままであった箇所の改修が行なわれた。ただし、国鉄の63形で早期に埋められた前面上部の通風器は、1800形ではそのまま存置された。 また、新製割り当てを受けた車両以外にも、20m車が2両入線した。まず、1949年1月に下十条で事故廃車となっていたモハ60050を原姿復旧した車両が1950年7月に入線し、1600形の制御車クハ1661として運用が開始された。クハ1661は当初は前面に貫通扉を残したままであったが、連結面側の貫通路は1,100mmの広幅貫通路となっていた。ただし、1600形との運用時には、広幅貫通路は締め切りとしていた。その後、事故廃車になったモハ42004を原姿復旧した車両がデハ1821として1952年12月に入線した。この車両は元来両運転台付きの2扉クロスシート車であったが、戦時中の1944年7月31日付で4扉ロングシート車に改造されており、小田急での復旧時に片運転台化、正面は非貫通3枚窓となり、連結面側の貫通路はクハ1661と同様に1,100mmの広幅貫通路となった。この時にクハ1661をクハ1871に改番した上で正面を非貫通3枚窓に改造、デハ1821と編成を組むようになった。 なお、デハ1821(国鉄モハ42004)は、国鉄42系電車のうち、唯一私鉄で運用された車両で、1945年6月8日に神崎駅付近で漏電事故を起こして全焼、車籍上は1947年10月22日付で廃車となり、公式には富士車輌で戦災復旧客車のオハ71 133として復旧したことになっている。だが、実際には書類上戦災廃車(1946年11月28日付)となったクハ85023(旧クハ58023の4扉化改造車)と振り替えて小田急に払い下げとなったものであった。 これらの車両は、戦後の混乱期の輸送力確保には大きく貢献し、「どんなにホームが混んでいても、1800形が来るとすっかりさらっていった」と評された。乗客からも、小型車の3両編成よりは1800形の2両編成の方が喜ばれたが、中には桜木町事故の記憶からか「63形」として敬遠する乗客もいたという。また、既述のとおり重くて強力モーターを備えた本形式は線路にかかる負担が大きく、保線部門からは「線路を壊す車両」として嫌われていた。
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