保元平治の乱とは? わかりやすく解説

保元・平治の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 04:14 UTC 版)

千葉常胤」の記事における「保元・平治の乱」の解説

以後、常胤は保元元年1156年)の保元の乱出陣し源義朝指揮下で戦う。これにより、少なくともこの時点では常胤を義朝郎党とする見方もあるが、保元の乱での後白河天皇側の武士の動員官符によって国衙通じた公式動員であることに注意が必要である。 その後平治の乱源義朝敗死すると、永暦2年1161年)には常陸国佐竹義宗隆義の弟)が前下総守藤原親通から常重証文手に入れ藤原親盛(親通の子平重盛側室養父)とも結んで伊勢神宮に再寄進しこれも伊勢神宮認められ支配権を得る。これを知った常胤も翌月再度伊勢神宮寄進意向示したこのため伊勢神宮側では常胤側の窓口となった禰宜荒木田明盛と義宗側の窓口となった禰宜度会彦章の対立生じたその後義宗伊勢神宮供祭料を負担して寄進状約束果たしたことが評価され長寛元年1163年)に義宗寄進是とする宣旨出され続いて永万2年1166年6月18日に明盛から彦章に契状提出し仁安2年1167年6月14日付で和与状作成された。当時和与による権利移転悔返認めない法理があり、これによって度会彦章・佐竹義宗勝訴確定した以後、常胤は義宗激しく争うことになる。 この頃平治の乱敗れた源義朝大叔父にあたる源義隆生後間もない子が配流されてきたため、常胤は流人としてこれを監督しつつも、源氏への旧恩から、この子密かに源氏の子として育てた。これが後の源頼隆である。

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保元・平治の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:48 UTC 版)

源頼政」の記事における「保元・平治の乱」の解説

鳥羽院末期後白河天皇崇徳上皇対立鳥羽法皇重篤陥った際、美福門院頼りにすべき武士として名を挙げた一人頼政名があるなど、このころ頼政美福門院に近い立場にいた。鳥羽法皇崩御後の保元元年1156年)に保元の乱が起こると、頼政美福門院支持する天皇方与し勝者の側となった。しかし同族全体でみると、河内源氏源為義とその長男義朝分裂為義その子供の多く処刑される大打撃受けており、摂津源氏でも頼政従兄弟の子である多田頼憲子息と共に処刑されている。 その保元の乱前年久寿2年1155年)には関東義朝長男・義平と争い大蔵合戦討ち死にした源義賢長男仲家木曾義仲の兄)を、経緯不明だ養子にしている。また保元の乱翌年保元2年1157年)には頼政の弟の頼行が、突然罪を受けて流罪となり自害する事件起きた頼政は頼行の子の源宗頼・源政綱源兼綱養子にしている。 保元3年1158年)、院の昇殿許された。保元の乱の後、後白河天皇権力握り、その側近信西勢力伸ばした。しかし美福門院らの一派守仁親王二条天皇)への譲位求めてくる。元々、守仁即位まで中継ぎとして即位していた後白河帝譲位せざるを得ず院政開始した。だが対立解消せず、後白河院支持派二条天皇親政派が生まれた。その上権力を掌握していた信西天皇親政派と関係があったため、純粋な院政支持派として藤原信頼台頭してきた。保元の乱摂関家権威地に落ちており、信西派・信頼派・二条天皇親政派が対立して政局混乱極めた政局混乱の中で信頼らの院政支持派天皇親政派は反信西手を結び平治元年1159年12月、都で最大軍事力有し中立派平清盛熊野参詣中という軍事空白期間に、信西政権へクーデター起こして信西殺害権力を掌握した(平治の乱)。美福門院支持する二条天皇への支援という名目で、頼政はこの信頼中心クーデター参加した。しかし実権握った信頼派と協力のみの天皇親政派はすぐに反目し平清盛中立から反信頼となると天皇親政派は二条天皇内裏から脱出させて六波羅清盛陣営迎えてしまった。この結果二条天皇美福門院に近い立場にある頼政信頼に従う意味を失うこととなる。 12月27日清盛義朝決戦が行われたとき、信頼に従う意味を失った頼政最終的に二条天皇擁する清盛味方した同じく二条天皇側近として信頼方に加わっていた源光保清盛方に付いた。その一方で信頼最後まで行動をともにした義朝敗死して河内源氏没落事実上中央から消えてしまった。

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保元・平治の乱

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信濃村上氏」の記事における「保元・平治の乱」の解説

越前配流になっていた顕清の次男村上為国崇徳院判官代『尊卑分脈』では「号 村上判官代」)とその子信国と基国(高陽院判官代、「号 村上判官代」)が、保元元年1156年)の保元の乱崇徳上皇味方し参加敗戦囚われたのち、兄弟生母為国の妻)が、後白河天皇側近藤原通憲信西)の娘であることを理由赦免された(一説に基国は後白河天皇方で、父の助命求めたともいう[要出典])。平治の乱1159年)では藤原通憲信西方につき勝利する。 なお、為国叔父村上盛清の養子となっているが、顕清の後を継いだ兄の宗清も「村上蔵人」を称している(『尊卑分脈』)ことから、養子以前(父の顕清や祖父の仲宗の代)から村上になっていたと考えられる[要出典]。為国の弟・盛国は八条院判官代となり筑摩郡波多郷に拠って波多判官代」を号した。 この時期系譜 仲宗 - 顕清 - 為国宗 - 盛清 = 為国 - 信国

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