作戦後の余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:21 UTC 版)
侵攻に対する北ベトナム側の反応は、連合軍との接触を避け、可能ならば西に戻って再編成することだった。 北ベトナム軍の部隊は計画された攻撃をよく知っており、攻撃が始まったときには既に多くのCOSVN/B-3前線部隊がカンボジア軍に対して北と西の遠方に離れて作戦を行っていた:45。1969年に、北ベトナム軍の兵站部隊は紛争の間じゅう行われたホーチミン・ルートの最大規模の延伸をすでに始めていた。カンボジアの補給ルート喪失への対応として、北ベトナム軍は同年にラオスのアッタプー県およびサーラワン県の町を掌握、60マイル(97 km)の領土を90マイル(140 km)の幅に押し広げて、カンボジアに入るセコン川全長にわたる兵站システムを開放した。カンボジアにて物流を扱うための新しい兵站指揮、第470輸送グループが作られた。そして新しい「解放ルート」はシエムプラン(Siem Prang)を通り抜けて、ストゥントレン州でメコンに到達した:382。 ライアード長官が予見したように、アメリカの大学キャンパスではこの侵攻からの撤退を求める声が急速に相次ぎ、さらに別の国への紛争拡大だと認識されたことに対する抗議行動が噴出した。5月4日、ケント州立大学銃撃事件でオハイオ州兵(英語版)が武装していない生徒4人(うち2人は抗議者でもない)を射殺したとき、混乱は暴動へとエスカレートした。その2日後、バッファロー大学にて警察はさらに4人のデモ隊を負傷させた。5月15日、市および州警察はジャクソン (ミシシッピ州)にあるジャクソン州立大学で2人を殺害し、12人を負傷させた。それより前の5月8日には10万人の抗議者がワシントンに集まり、わずか10日の予告でサンフランシスコにはさらに15万人が集まった。全国30ヵ所の予備役将校訓練課程(ROTC)ビルが炎上したり襲撃を受け、また26の学校が生徒と警察の激しい衝突を目撃した。16州21のキャンパスで州兵が動員された。学生のストライキはアメリカ合衆国全土に広がり、400万人以上の学生と450の大学、大学、高校がおおむね平和的な抗議行動とストライキを行った[要出典]。 同時に、5月第2週の世論調査では、アメリカ国民の50%がニクソン大統領の行動を支持したことが判明した:182。58%がケント州で起こったことについて学生側を咎めた。賛否のどちら側でも感情が昂った。一例として、5月8日のニューヨーク市では、行政当局の建設作業員がデモ行動中の学生と騒ぎになり、暴動に発展した(ヘルメット暴動ことHard Hat Riotを参照)。しかし、そのような暴力行為は常軌を逸したもので、大半のデモは戦争支持であれ反戦であれ平和的であった。5月20日には、10万人の建設労働者、商業者、事務職員が大統領の方針を支持してニューヨーク市を平和的に行進した[要出典]。 侵攻に対する米国議会の反応も迅速だった。 上院議員のフランク・チャーチ(民主党、アイダホ州)とジョン・S・クーパー(共和党、ケンタッキー州)は、カンボジアにおける米国の地上作戦と軍事顧問だけでなくカンボジア軍に対するアメリカの航空支援をも終わらせることになるだろう資金削減、すなわち対外有償軍事援助法の改正を提案した。6月30日、アメリカ合衆国上院では改正を含めた同法案が通過した。米軍が予定通りにカンボジアから撤退した後、その法案は下院で否決された。しかしながら新たな改正法は、ジョンソン大統領とニクソン大統領が宣戦布告なしに7年間の軍事作戦を行っていた東南アジア決議(トンキン湾決議としてよく知られている)を無効にした[要出典]。 クーパー・チャーチ改正は冬に復活し、1970年の対外有償軍事援助法補足に組み込まれた。今回の改正措置は両議院を通過して、12月22日に法制化した。 その結果、すべての米国陸軍および軍事顧問はラオスやカンボジアにおける軍事行動への参加を禁じられた。その一方、両国で実施されていた米国空軍による航空戦には目をつむり不問とした:276。
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