伯爵家の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 19:40 UTC 版)
その息子である2代子爵ジョン(1648-1707)も一族の御多分に漏れず、法曹家として頭角を現して法務長官(英語版)や民事控訴院主席書記官(英語版)を歴任したほか、名誉革命後の国王ウィリアム3世に仕えて筆頭国務大臣(英語版)を務めた。彼は1703年4月8日にスコットランド貴族爵位のステア伯爵(Earl of Stair)、ダルリンプル子爵(Viscount Dalrymple)、ニューリストン、グレンルース及びストランラー卿(Lord Newliston, Glenluce and Stranraer)を与えられて、現在へと続く伯爵家の始祖となった。ただし、彼は生前に自身の署名と指示の下、マクドナルド氏族の謀殺(グレンコーの虐殺)を行って悪名を馳せている。ゆえにダルリンプル家の名にも傷がつき、スコットランドでは伯爵家の家紋と似るトランプの「ダイヤの9」が不吉の象徴とされるほどであった。 その子である2代伯ジョン(1679–1747)は大同盟戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争を転戦・従軍した武人である。彼は甥に爵位を継がせようとしてノヴォダマスを行使し、ジョン・ダルリンプルを後継者に指名した。しかしこれにはジェームズ・ダルリンプルから異議を唱えられた結果、貴族院は1748年に「恐らく合同後は指名権が消滅した」と判示して、ジョンへの爵位継承を否定した。この判決に基づき、以降はジェームズ(3代伯)、その兄ウィリアム(4代伯)が爵位を継いだ。4代伯には存命の男子がなかったため、結局は先述のジョンが5代伯となった。 5代伯とその子の6代伯ジョン(1749–1821)はともにスコットランド貴族代表議員に選出されている。6代伯には子がなく、爵位は叔父の息子ジョンが継いだ。 7代伯ジョン(1784-1840)は私生活の面では結婚をめぐって裁判に巻き込まれた。彼はダイザート伯爵家(英語版)令嬢と結婚した際、事実婚状態であった女性から訴えられた。1809年に事実婚の効力を認める判決が下り、7代伯は伯爵家令嬢と離婚する羽目になった。彼は1840年に死去したが、その死とともに初代伯爵の系統が途絶えた。以降は初代伯の弟サー・ジェームズ・ダルリンプル(英語版)(1615-1709)の子孫へと受け継がれ、サー・ジェームズの玄孫にあたるジョン・ダルリンプルが8代伯爵となった。この際に(クランストンの)準男爵(英語版)が伯爵位の従属爵位となっている。 8代伯ジョン(1771-1853)はフランス革命戦争やナポレオン戦争に参戦して、陸軍大将にまで進んだ人物である。彼は1841年8月11日に連合王国貴族としてミッドロジアン州コースランドのオクセンフォード男爵(Baron Oxenfoord, of Cousland in the County of Midlothian)を授けられた。子はなかったものの男爵位には弟ノース(1771-1864、9代伯)への特別継承権があり、次代へと繋ぐことができた。 その子の10代伯ジョン(1819-1903)は政治家・実業家として活動し、33年の長きにわたりスコットランド銀行総裁を務めている。以降もこの流れで続き、その子ジョン(英語版)(1879-1961、12代伯)、同名の息子ジョン(英語版)(13代伯)が爵位を継いだ。 13代伯ジョン(1906-1996)は陸軍軍人であった傍ら、1928年サンモリッツ冬季オリンピックにボブスレー競技で出場するなどの活躍を見せた。 その息子にあたる14代伯ジョン(1961-)が伯爵家現当主である。彼は2008年に互選を経て、貴族院における世襲貴族枠92議席の一人に選ばれている。 伯爵家の邸宅には、スコットランド・ミッドロージアンに位置するオクセンフォード城(英語版)、ダンフリーズ=ギャロウェイに臨むロキッジ城(英語版)がある。 ロキッジ城(英語版)、もとはカセルス伯爵家ケネディ一族の城であった。現在はステア伯爵家が保持。 オクセンフォード城(英語版)、建築家ロバート・アダムの設計による邸宅。伯爵家の主邸。
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