人物評と業績、評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:16 UTC 版)
「ジャック・シラク」の記事における「人物評と業績、評価」の解説
シラクはシャルル・ド・ゴールとジョルジュ・ポンピドゥーに関連が深い。シラクもド・ゴール主義者のひとりとしてフランスの国益、フランスの栄光が行動の指針となっていた。 政治の師であるポンピドゥーはシラクの旺盛な行動力を「自宅からエリゼ宮までトンネルを掘って欲しいと言えば、翌日まで完成させて出口で待っているだろう」と表現している。その一方で「目標に向かってしゃにむに走る男だが、成熟が課題」と評した。ポンビドゥーから「ブルドーザー」というように評された。 シラク評は、社会党大統領として政敵であり、コアビタシオンで大統領と首相として政権を共にせざるを得なかったフランソワ・ミッテランも興味深い考察をいくつか残した。孤高の皮肉屋であったミッテランはシラクを「自分が何故回っているのかも知らずに回り続けるコマのような人間」「何というエネルギー、何という行動力、何という快活さ、惜しむらくは、冷静な判断力に欠ける」と行動力に比して内省的な思考の不足を述べた。一方でミッテランはシラクの力量を正当に評価してもいる。1988年大統領選挙に惨敗し失意の中にあったシラクをミッテランは「戻ってくるだろう」と、その行動力を発揮して権力の中枢に復権することを予言した。 官僚出身のエリートだが飾らない庶民派として知られ、仔牛の頭やビールを好み大衆との近さを売りにしていた。同じ保守派だが複雑な関係にあった貴族に連なるヴァレリー・ジスカール・デスタンが、気取り屋ぶりを揶揄されていたことと対照的である。 大統領時代の功績としてあげられるのは、イラク戦争に反対したことである。アメリカ主導によってイラク戦争が行われようとした際、側近で外務大臣のドミニク・ガルゾー・ド・ビルパンらを通じて開戦に反対した。シラクおよびフランスの意図はアメリカの一極支配、単独行動主義への警戒・反発や高まる反戦世論への反応という側面が強かったが、結果としてイラク戦争後の混乱や大量破壊兵器が存在しなかったことにより、フランスの良識を広く知らしめることになったという評価がある一方、その後しばらく米仏関係は冷え込み、フランスの影響力を削ぐことになったという批判もある。イラクの独裁者サダム・フセインとは1970年代から個人的に親しくしており、「ジャック・イラク」、イランから「イラクのシャー」、イスラエルはフランスの協力で建設された原子炉から「オ・シラク」と呼ばれた。 シラクはもともと親米的な人物として知られており、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は対米協力を強力に推し進めた。イラク戦争でも、実際の開戦までの過程で、米軍と共にペルシャ湾に艦船を派遣して空爆に備えたり(上述)、「二段階攻撃論」を主張するなど、当初から開戦反対を唱えたドイツとは異なり、米国と共同歩調を模索したが直前に開戦反対して米国では「裏切られた」とする反応が少なくなく、米仏関係は極度に悪化した。アメリカとの関係改善が大きな政治課題として残されたが、任期中は本格的な改善に至らず、対米関係修復を志向するサルコジの台頭を招いた。 国内問題は、1995年7月16日大統領就任直後に第二次世界大戦中、フランス警察が行ったユダヤ人迫害事件であるヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件に対して、追悼式典に出席した上で、初めてフランス国家の犯した誤りと認めた。自ら総裁を務める共和国連合を中心とする右派にも波紋を拡げる演説であったが、国民の多数がシラクの演説を支持した。 最大の政治的失点は2005年欧州憲法条約の国民投票における否決である。フランスの欧州憲法採択の手法としては国民投票と議会における批准という二つの選択肢があったが、シラクはリスクの高い国民投票に賭け、失敗した。このシラクの失敗はシラクの政治的威信の低下とともに欧州統合の失速、欧州統合におけるフランスの威信低下をも招いたという点で致命的であった。 若者を中心とする失業、移民の増加による多文化社会とそれに伴う社会的亀裂も、シラクは修復することができなかった。シラク個人の責任ではないが、治安の悪化は移民排撃を主張するジャン=マリー・ル・ペンによる国民戦線や、寛容よりは治安維持を重視するサルコジの台頭を招き、フランス社会は重大な岐路に立っていると言えよう。 フランスと北朝鮮の間に国交が無いが、シラクは「テロ国家とは国交など結ばない」と述べていた。
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