人物評など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:19 UTC 版)
明の最大版図を築き、鄭和の大航海などの事業を起こすなど、気宇壮大な皇帝であった。洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言える。しかし、宦官を重要な地位につけてはならないという洪武帝の遺訓に背いて宦官を重用した。これは、洪武帝の遺訓を守った建文帝から待遇の悪かった宦官を、靖難の変の際に利用し、また皇位簒奪という負い目もあって官人との間に信頼関係を築けなかったことによる。永楽帝の治世に限って宦官の起用は成功であったろうが、後代における宦官による壟断の原因となった。 靖難の変では兵力・物量で圧倒的に不利な状況にあるにもかかわらずに勝利し、65歳の高齢を押した最後の出陣も含めて皇帝の地位にありながら5回もモンゴル高原に親征するなどという異例の行為を見せているが、これらは永楽帝が類稀な軍略家であったことを示している。 即位直後における建文帝旧臣の粛清は、洪武帝のものと同等とされ、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり、芋づる式の意)」と後世に酷評された。 『明史』「成祖本紀」には「若くして兵学を修め、勇武の才略は太祖洪武帝にも匹敵した」と軍事の才能を褒め、「即位後自ら倹約を行い自然災害が発生したら人民をただちに救済し、人物を良く見抜いて適材を適所に配した」と行政面での見識を賞賛しつつ、「甥にあたる建文帝を倒して帝位を奪ったことは隠すことができない」と靖難の変を汚点の一つとして記している。
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