人物を現す逸話
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7歳の時に母の呼延氏を亡くすと、劉淵は地団太を踏んで胸を叩きながら号泣し、その悲しみぶりは尋常ではなかった。その様は周囲の者も感動させる程であり、部族の民や宗族からはその孝行ぶりを称賛された。当時、魏の司空であった王昶もまたこれを聞くと劉淵を大いに褒めたたえ、使者を派遣して弔問を行ったという。 かつて劉淵が崔遊に師事していた頃、同じ門下生である朱紀・范隆に向けて「随何や陸賈には学問があっても武功が無く、絳侯(周勃)や潁陰侯(灌嬰)には武勇があっても学問が無かった。だから随何・陸賈は高祖に仕えたが侯に封ぜられる活躍はできず、絳侯・潁陰侯は太宗に仕えたが人民を教導するような事はできなかった。いずれしても惜しいことだ」と述べると、それを自らの教訓として文学だけでなく武芸の稽古にも励むようになった。 屯留出身の崔懿之や襄陵出身の公師彧らは人相見として評判であったが、彼らは若い頃の劉淵と会うなり大変驚いて「この人の出で立ち、容貌は常人のものではないぞ。こんな凄い人を、今まで会ったことがない」と互いに言い合い、劉淵を崇拝して深く交流するようになった。 魏晋王朝の重臣である王渾とは洛陽にいた時代に深い交流を結んでおり、互いに謙虚に親交を深め合ったといわれ、王渾は子の王済には劉淵に拝させる程であった。西晋が樹立すると、王渾は武帝司馬炎と謁見する度にしばしば劉淵の事を褒め称え、彼が重んじられるきっかけを作っている。 304年8月、司馬穎が東嬴公司馬騰・安北将軍王浚に敗れて鄴を放棄して逃走した時、劉淵は司馬穎救援の為に兵を繰り出そうとしたが、劉宣は固くこれを諌めて「晋朝は非道にも我らを奴隷のごとく扱いました。故にかつて右賢王劉猛は激憤を堪えられず反乱を起こしましたが、当時はまだ晋朝の綱紀は緩んでおらず、大事は成就せずに劉猛は殺されてしまいました。あの敗戦は単于の恥といえましょう。今、司馬氏は父子兄弟で争っておりますが、これは天が晋を嫌って我ら匈奴に天下を授けようとしているのです。単于(劉淵)は身に徳があり、晋人すら感服させてきました。今こそ、国家・民族を振興させて、呼韓邪(分裂していた匈奴を統一した人物)の事業を復活させる時なのです。鮮卑や烏桓は我らの助けとすべきであり、彼らと争い仇敵の関係になる必要などありません。天がわれらに手を貸して晋朝を滅亡させようとしている時に、その意思に逆らってはなりません。もし逆らえば事業を成功させることはできないでしょう。天が与えようとしているものを受け取らなくては、逆に罰を受けることになります。どうか単于は進むべき道を間違われませんよう」と請うた。劉淵はこの諫めを受けて「いいだろう!ただ、大丈夫(一端の男)として生まれたからは漢高(劉邦)や魏武(曹操)を目指すべきであり、どうして呼韓邪なんぞで足りようか!」と述べると、劉宣ら群臣は感嘆して「とても我らの及ぶところではございません」と述べて頭を下げたという。 304年12月、冠軍将軍喬晞が介休を攻略した時、介休県令賈渾は西晋に忠義を誓って降伏を拒絶した為、喬晞の怒りを買って殺害された。また、その妻である宗氏は年若く容貌が美しかった事から、喬晞は彼女を娶ろうとしたが、宗氏は泣き叫びながら喬晞を罵倒したので、彼女もまた殺害された。劉淵はこの件を伝え聞くと、激怒して「天道がこれを知ったならば、喬晞はどうして種(子孫)を望めようか!」と言い放ち、すぐさま兵を送って喬晞を捕らえて連れ戻させ、官位を四等降格した。また、賈渾の屍を収容すると、これを手厚く葬ったという。 309年3月、滅晋将軍劉景が延津を陥落させた時、彼は延津にいた3万人余りの男女を河へ投げ込み、尽く殺害してしまった。これを聞いた劉淵は激怒して「景(劉景)はどのような面目があって朕に再び会うつもりなのか。天道がどうしてこのような振る舞いを許そうか。我が除かんとしているのは司馬氏だけであり、細民(民百姓)に一体どのような罪があろうか!」と言い、 劉景を平虜将軍に降格させた。 宗正の呼延攸は劉淵の妻の弟に当たる人物であり、また漢の元勲の一人である呼延翼の子であるが、劉淵はその無能で俗的な人格を忌み嫌い、決して要職に就けなかったという。劉淵の後を継いだ劉和は呼延攸の外甥で、親交が篤かったので、彼を太尉という重職に就けたが、その進言により異母弟の劉聡らを粛清しようとしたので身の破滅を迎えた。果たして劉淵が懸念した通りであったという。
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