京浜電気鉄道のバス事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:10 UTC 版)
「京浜急行バス」の記事における「京浜電気鉄道のバス事業」の解説
京浜急行の前身である京浜電気鉄道がバスの営業を始めたのは、1927年(昭和2年)のことである。最初の路線は八丁畷駅 - 川崎住宅地(現在の京町・平安町付近の自社開発住宅地)間であった。もともと京浜電鉄は1922年(大正11年)以来、自社の鉄道に沿った形での京浜間連絡をバスによっても行うべく、数度にわたり路線免許の申請を行っていたが、すでに高輪 - 六郷間の旧国道(旧東海道)上には東京乗合自動車(通称青バス。現・都営バス)が運行しており、認可はなかなか下りなかった。そこで、まずは競合のない川崎市内において運行し、バスの営業実績を作ることを優先させたのである。 詳細は「川崎鶴見臨港バス浜川崎営業所#川29(入船橋循環線)」を参照 この頃、東京府内では鉄道沿線の大森町や蒲田町(どちらも現・大田区)から森ヶ崎鉱泉への足として人力車や乗合自動車を運行していた都南自動車商会と森ヶ崎人力自動車の競争が激化していた。京浜は国道線免許獲得への種蒔きを狙って両社間の調整に割って入り、1928年(昭和3年)、両社を統合した会社梅森自動車を誕生させる。翌1929年(昭和4年)に京浜間連絡の足がけとなる高輪 - 六郷間・新国道経由路線の認可をようやく得ることができ、同年10月より営業を開始した。 詳細は「京浜急行バス羽田営業所#都内京急バスの源流」および「京浜急行バス大森営業所#梅森自動車と森ヶ崎」を参照 また、この年には鉄道の大師線に並行する古家達三経営の川崎駅 - 大師間を継承し、穴守線に沿った蒲田 - 稲荷橋間にも路線を設けている。さらに、翌1930年(昭和5年)に東京乗合経営の旧国道上の路線も譲り受け、この地域における営業基盤を確立した。 詳細は「都営バス品川営業所#戦前・民営乱立時代」を参照 その後、国道線の横浜方面への拡張を進め、1932年(昭和7年)4月に生麦まで開業するも、その先は横浜市電と競合することから免許を得ることが出来なかった。このため、委託契約により横浜市の免許区間に乗り入れを行うという苦肉の策をとり、ようやく京浜間の連絡を果たすことができたのが同年10月のことであった。 詳細は「横浜市営バス鶴見営業所#鶴見区内の市営バスの始まり」を参照 以後、京浜電鉄バスは川崎・蒲田周辺を中心に路線拡充を図り、1933年(昭和8年)、蒲田乗合自動車を傘下に収めると、1935年(昭和10年)梅森自動車も正式に京浜傘下入りした。 1941年(昭和16年)、京浜は湘南電気鉄道と湘南半島自動車を合併、横浜市杉田と鎌倉市を結ぶ線から南の三浦半島のバス路線をほぼ一元化した。以下、この2社のバス事業について触れる。
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