京浜電気鉄道の出資により路線開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 06:56 UTC 版)
「湘南電気鉄道」の記事における「京浜電気鉄道の出資により路線開通」の解説
1923年に免許が下りたものの、関東大震災で建設中の路線崩壊等の被害を受け、打撃を受けた湘南電気鉄道設立準備会社は開通前に倒産の危機に見舞われた。その際に資金援助(出資)したのが京浜電気鉄道(当時、高輪 - 神奈川)で、出資の条件に京浜電気鉄道と湘南電気鉄道の相互乗り入れを決め、1925年(大正14年)に会社設立にこぎつけ、1930年(昭和5年)黄金町 - 浦賀間と金沢八景 - 湘南逗子間の一挙全線開通に至った。 会社設立時には、本線は桜木町 - 浦賀の計画であったが、開通時には桜木町駅への延伸と、日ノ出町へ延伸して京浜電気鉄道と連絡するという二つの可能性が残されていた。黄金町 - 横浜間は「関東大震災で被災した横浜駅を移設中であり、現・京急横浜駅付近は貨物線用地で手前に仮駅とし寸断されていた」ことや「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}桜木町経由の接続路線用地がなく[要出典]、現行路線の建設を行うもトンネル工事に時間がかかった」ため、黄金町駅を暫定ターミナルとした。また黄金町からは、横浜市電への乗り換えで横浜方面に乗客を誘導していた[要出典]。1930年7月から直通運転を開始する翌年12月までは、京浜電気鉄道が免許取得した連絡バスで横浜 - 黄金町間の連絡を行った。 1931年の日ノ出町延伸後は、京浜電気鉄道と一体として運用され、現在の京浜急行電鉄の原型がここに誕生した。軌間は京浜電気鉄道との直通運転のために、当初計画の3フィート6インチ(狭軌、1,067mm)から変更して標準軌が採用された(1926年(大正15年)9月認可)。京浜電気鉄道は東京電車鉄道(後の東京市電)との相互乗り入れのために1904年(明治37年)に軌間を標準軌から4フィート6インチ(馬車軌間、1,372mm)に改軌しており、1925年(大正14年)3月からは高輪 - 北品川間の線路を東京市電と共用していた。しかし地方鉄道法により湘南電気鉄道全線と京浜電気鉄道の横浜 - 日ノ出町間がこの軌間を認められなかったため、京浜電気鉄道側が1933年(昭和8年)4月の品川 - 浦賀間直通運転に合わせて標準軌に戻した。 架線電圧も湘南電気鉄道が1500Vに対し京浜電気鉄道が600Vと差があった。1936年には急行運転区間を品川 - 上大岡間に拡大するのに伴い、黄金町 - 上大岡間の電圧が600Vに下げられたが、大東急時代の1945年(昭和20年)12月(横浜 - 上大岡間)と1947年(昭和22年)12月(品川 - 横浜間)に1500Vに昇圧している。 湘南電気鉄道では開発にも力を入れ、沿線の中小バス事業者を買収してバス路線網を確立するとともに(後述)、浦賀から竹岡までの航路を開設し、東京湾横断の船舶事業も行っていた。
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