事業計画と着工までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:10 UTC 版)
「横浜みなとみらい21」の記事における「事業計画と着工までの経緯」の解説
1980年代に再開発が行われる以前は、当地に三菱重工業横浜造船所、国鉄高島線(貨物支線)の東横浜駅および高島駅・高島ヤード(操車場)、高島埠頭、新港埠頭などの広大な港湾・業務関連施設が広がっており、横浜市の中心部に位置しているにも関わらず一般の人々が気軽に立ち寄れるような場所ではなかった。そのため横浜港開港以来の中心市街地である関内(中区)と、巨大ターミナル駅で市内随一の繁華街である横浜駅一帯(西区)の2つの横浜都心(ツインコア)は長らく分断された状態が続いていた。そういった経緯から、それまでの港湾・業務施設の機能を他所に移転させ、横浜都心部の一体化と強化をめざしたウォーターフロント都市再開発として計画・建設された。 飛鳥田一雄横浜市長が1963年に当選し、横浜の五重苦と呼ばれていた関東大震災、昭和恐慌、太平洋戦争による空襲、GHQによる占領と市内都心部の接収、および人口急増によるスプロール現象を克服することが、地域としての大きな課題となっていた。そのため1965年に横浜市六大事業が提案され、都心部強化として三菱重工業横浜造船所、国鉄高島線の東横浜駅(貨物駅)・高島ヤード(操車場)、高島埠頭、新港埠頭の一帯を再整備し横浜駅周辺と関内・伊勢佐木町という二つに分断された横浜都心部を一体化させる「都心部強化事業」として、就業人口19万人・居住人口1万人を目標とした事業計画が打ち出された。以降、オイルショックをはじめとする経済情勢の影響などにより計画がしばらく進行していなかったが、1979年に細郷道一横浜市長の下で「横浜市都心臨海部総合整備計画」基本構想が発表され、三菱重工業横浜造船所等の移転完了とともに1983年に「みなとみらい21」事業としてようやく着工に至った(事業名および街の名称の決定については後節「#街の名称について」を参照)。なお、この時点では高島ヤード周辺の開発の目処が立っていなかったため、横浜駅側からではなく前述の造船所跡が広がる桜木町駅側から開発を進めていくこととなった。 また、首都圏は東京23区(特に都心3区)の都市機能の集積が大きいため、横浜市は自治体として日本一の人口を擁するものの東京の衛星都市・ベッドタウンとしての側面が強い。横浜市から東京への通勤・通学者数が多く、横浜市の昼夜間人口比率は常に100を下回り続けている。このような東京都心一極集中から首都圏での展都という趨勢の中で、みなとみらい計画は東京都心の負荷を軽減し、神奈川県及び横浜市の経済拠点として首都圏経済を牽引する役割を分担し、企業法人本社機能や事業所等の立地促進、企業法人の集積の波及として起こる中小企業の活性化や新規起業者の増加などを目指している。具体的には日産自動車やいすゞ自動車、京浜急行電鉄などの大企業の東京からの本社移転や、富士フイルム、ソニー、韓国のLG電子などの研究開発施設(R&Dセンター)の誘致に成功し、横浜市の業務機能(オフィスビル)・就業人口の拡大に寄与した。 このように本計画は横浜市において二つに分断された都心を一体化させ都市機能を充実し、昼間人口や就業人口を増やすことで市内経済の活性化を目指し、地域社会の成長を目指した施策である。
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