中国長春鉄路の登場
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この満鉄本部接収と前後して、ソビエト連邦と満州の行政権が移管される中華民国との間で、満州の戦後処理交渉が行われた。 これにより1945年8月14日、ソ連は中華民国政府に対し軍事物資などの支援を行うことを定めるとともに、軍事行動が不要となった場合は軍政を解除、行政権を中華民国に移管するとした「中ソ友好同盟条約」を締結、12月3日から発効すると定められた。 この条約締結に併せて「旧東清鉄道及び南満州鉄道線、すなわち満洲里-綏芬河及び哈爾浜-大連・旅順間を一路線とし『中国長春鉄路』と定め、中華民国及びソ連の共同所有・共同経営とし、支線もそれに付随する」とする「中国長春鉄路協定」が締結された。 これにより、12月3日の条約発効と同時に、旧満鉄・旧満州国鉄を継承することを目的とした中ソ合弁会社である「中国長春鉄路公司」が発足することが決定した。設立根拠となった協定は30年期限とされ、満期後は中国長春鉄路公司の全資産を無償で中華民国政府に譲渡すると定めており、暫定的な性格を有する会社であった。 一方、満鉄に対しては8月31日には大連本社を接収、9月12日には哈爾浜に着任した会社幹部のジュラヴィヨフ少将から、満洲里-綏芬河間はソ連軍が、その他の各線は現在の従業員が運営する方針が伝達された。 しかし9月22日、中国長春鉄路のソ連側代表としてカルギン中将が長春を来訪、旧満鉄新京本部を中国長春鉄路本社として理事会を設置、自ら副理事長に就任し旧満鉄総裁の山崎元幹に対し、旧満鉄・旧満州国鉄の全路線の管理権が自分に移管されたことを伝達した。山崎は条約発効前にもかかわらず新会社が設立された理由を質問したが、カルギンは既に会社設立は完了しているが、中国側代表が着任していないと回答、会社発足を強行した。これには鉄道および満州にある各種資産の確保とソ連への輸送を目的としたソ連政府の意向が強く反映されていると考えられている。 このようにして満鉄は解体され、中国長春鉄路が鉄道経営を継承することとなった。山崎はこの状況下、日本人社員を中国長春鉄路社内に幹部社員として出向させソ連側の意向を牽制すると共に社員に綱紀粛正を徹底した。 9月27日、満鉄の消滅と元社員を中国長春鉄路公司社員に任用する方針が通告され、9月28日に旧満鉄新京本部の表札が外され「満鉄の消滅」が形で示される頃から、引継業務が本格的に着手された。引継ぎ業務完了後は当面の会社運営及び日本人に引揚輸送に必要な人員の確保を目的に旧満鉄社員を日本への引揚げを認めず、現地に留任させて鉄道運行業務に当たらせるという「留用」が実施され、多くの社員が留用された。 留用された旧満鉄社員ははソ連側の指示に積極的に協力したが、11月9日に「満鉄は関東軍の走狗であり準軍事機関である」ことを理由に旧満鉄財産のソ連への引渡要求があった際、「満鉄は日本の自主独立機関であり、財産も日本政府の出資にかかるものである以上自由な処分はできず、引渡可能な内容は管理権及び利用権のみである」とソ連側に反論している。なおこの問題に関しては、山崎に対するカルギンの好意もあって、日本側の意見が諒承されている。 会社にとり大きな問題となったのが、満州の治安維持である。日本敗戦を知った地元住民による主要都市での暴動は治安状況を悪化させ、満州国や関東軍という警察力を失った満州での治安維持能力を有する機関は、会社とソ連軍のみであった。しかし会社の警察力は限定的であり、またソ連軍は末端兵士の軍紀の乱れにより掠奪や暴行事件を頻発させたばかりでなく、鉄道車輛や工場設備などを戦利品として不法に接収しており、住民からの信頼を喪失していた。 また中ソ友好同盟条約にはソ連軍の駐留を3ヶ月と規定していたが、ソ連軍はこの規定を無視して期限後も満州駐留を継続した。その間、満州ではいくつもの中ソ合弁企業が設立されており、参戦国として満州利権を獲得すべく準備を進めていた。 なおこの後、日本ではGHQにより南満州鉄道の処遇が協議され、満鉄は1945年9月30日に解散したものとし、さらに翌1946年4月11日には社員を1945年12月31日に遡及解雇する指令が出されていたが、満州にその指示は伝達されていない。
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