中国陶磁史の概観
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『中国陶瓷史』(中国珪酸塩学会編、1982)の序文は、中国陶磁の精細な製作技術と悠久の歴史伝統は世界でも類まれなもので、中国古代文化の主要な一部を構成し、人類物質文化史上の重要な研究対象であると述べている。意匠や器形に西アジアなどの外国の影響を受けつつも、中国陶磁は常に独自の歩みを続けてきた。中国の長い歴史の中ではたびたび王朝が交替したが、漢民族以外の民族による征服王朝の時代においても、中国陶磁の伝統は守られ、一貫した陶磁史を形成している。 中国陶磁の歴史は新石器時代に始まった。中国における最初期の土器が、いつ、どこで作り始められたかは明確ではないが、出土品の放射性炭素年代測定結果によれば、1万年前頃には原始的な土器が焼造されている(後述のように、最初期の土器は2万年前にさかのぼるとの報告もある)。中国陶磁の特色の一つは、早くも新石器文化期に窯の使用を開始していることである。野焼きによる土器焼成から一歩進んで、窯を使用することによって、高火度焼成が可能となり、より硬質のやきものが生産されるようになった。また、胎土の選択、焼成温度や窯内に送る酸素量の調節などの工夫によって、灰陶・黒陶・白陶などの変化に富んだやきものが作られるようになった。さらに、ロクロの使用によって精緻な形態の、器壁が薄く均一なやきものを作り上げることができるようになった。今一つの特色は施釉陶の開発である。世界の陶磁史のなかで、外国からの技術導入ではなく、自発的に施釉陶を開発したのは西アジア・エジプト地域と中国とであった。中国ではすでに殷中期、紀元前1500年頃には灰釉を人為的に掛けた施釉陶が生産されている。この時期の施釉陶を「磁器」とみなすかどうかについては意見が分かれるが、それから千数百年を経た後漢時代(2世紀)には「古越磁」と呼ばれる本格的な青磁器が焼成されている。唐時代の陶磁工芸を代表するものとして唐三彩があるが、これは磁器ではなく、釉に鉛を用い、低火度で焼成した鉛釉陶器である。唐三彩は墳墓の副葬品や建築材料として作られたものであり、日常生活用品ではなかった。 宋代には官窯が設置され、定窯の白磁、汝窯(じょよう)の青磁などに代表される、器形・釉調ともに最高度の技術を駆使した作品が生み出された。同時に、華北・華南の各地に磁州窯・耀州窯・龍泉窯・建窯・吉州窯などの個性的な窯が栄えたが、中でもこの時代から存在感を発揮し、以後の中国陶磁史をリードしていくのが江西の景徳鎮窯である。元代には、白地にコバルト顔料による青色で絵付けをした磁器である青花(日本語では「染付」という)の生産が盛んになり、輸出磁器として、イスラム圏などの外国で競って求められるようになった。 明代には景徳鎮窯が窯業の中心となり、青花や五彩などの絵画的な加飾を施した器が盛んに生産された。明末から清初にかけては、景徳鎮の民窯や福建省の漳州窯などで、官窯とは作風の異なる輸出向けの磁器が大量生産され、ポルトガル・オランダ・日本などへ運ばれた。清代には、七宝の技法を応用した粉彩(琺瑯彩)の技術が開発され、磁器の器面に絵画と同様の絵付けが施されるようになった。この時期、技術の進歩によってさまざまな色釉が新たに開発され、中国陶磁は成形や施釉の技術、絵付けの技法ともにその頂点を迎えた。清代後期以降の中国陶磁は、社会情勢の不安定化とともに従来の技術水準を維持することができなくなり、頂点を極めた中国陶磁はその進化の歴史に終止符を打った。
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