中国青年党への加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 07:09 UTC 版)
1921年(民国10年)春に南京の東南大学に入学していた陳啓天は、1924年(民国13年)6月に同大学を卒業し、上海に赴く。そこで中華書局新書部編輯となり、月刊誌『中華教育界』の主編となった。同年9月、フランスに留学していた中国青年党指導者の曽琦・李璜らが帰国すると、陳は彼らに協力し、上海で青年党機関紙『醒獅』を創刊している。1925年(民国14年)7月、陳は正式に青年党党員となった。同年10月には、陳の建議により党外郭団体の中国国家主義青年団が成立し、さらに陳の発起により国家教育教会も設立されている。1926年(民国15年)7月、青年党第1回全国代表大会において、陳は執行委員兼訓練部主任に選出された。陳は『醒獅』誌上において、国家主義・反三民主義・反共主義を唱え、北京政府の呉佩孚・孫伝芳らを支持し、中国国民党・中国共産党に対抗している。 1926年(民国15年)7月より国民党が北伐を開始すると、陳啓天は北京政府側を支持して言論活動や工作を展開したが、最後は敗退した。1928年(民国17年)8月、上海で開かれた青年党第3回全国代表大会に参加し、中央常務委員兼訓練部主任を引き続き務める。翌年初めに四川省に入り、張瀾が主宰する成都大学で社会学・中国近代教育史の講座を開いた。同年5月、上海に戻り、李璜に替わって青年党の党務学校「知行学院」で院長を務めている。1930年(民国19年)8月、青年党第5回全国代表大会で中央検審委員会が成立すると、陳が委員長に選出された。この頃から紅軍の活動が活発になったため、陳は上海で反共宣伝のための雑誌『鏟共半月刊』を刊行している。 1931年(民国20年)、満州事変が勃発すると、陳啓天はそれまでの反国民党姿勢を改めるべく、上海で雑誌『民声周報』を刊行し、「政党休戦」を主張した。翌年初めに国民政府が開催した国難会議に陳も特別に招聘されたが、青年党自体が蒋介石への不信を解けず、結局陳も出席できなかった。その影響は同年夏の第7回全国代表大会にも及び、陳、曽琦、李璜はいずれも党中央の地位を喪失している。その後も陳は青年党の宣伝に従事し、1935年(民国24年)の第8回全国代表大会でようやく中央常務委員兼訓練部主任に復帰した。
※この「中国青年党への加入」の解説は、「陳啓天」の解説の一部です。
「中国青年党への加入」を含む「陳啓天」の記事については、「陳啓天」の概要を参照ください。
- 中国青年党への加入のページへのリンク