三木之助の系譜
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『宮本小兵衛先祖附』によると 奥方附足軽頭 高弐百五十石 宮本小兵衛 元禄九年子、五十五歳 一、先祖、伊勢国中川原と申す処に、小城持居り申し候由、申し来り候。祖父中川志摩之助、世倅の時分、牢々仕り、仙石権兵衛殿、讃州に御座候節、奉公罷出、武篇の走り廻り数度仕り候て、鉄砲頭に成、知行千石余り下され候、或る時、手柄仕り候褒美として、権兵衛殿の御紋、永楽之上字を下され、永ノ字を紋付け来り申し候、其の節、水野日向守殿、其の頃は六左衛門殿と申し、御父和泉守殿不和に付、権兵衛殿に御座候、其の時分より御心安く、別して入魂に仕り、其の馴みにより、其の後、日向守殿仰せられ候は、彼方此方と申すべきよりは、心安く、此方へ参るべく候。武者奉行を御頼み成されたき由にて、御呼び成され、鼻紙と仰せられ、知行六百石下され候、(後略) 一、中川志摩之助嫡子、同形部左衛門(水野藩士・略) 一、中川志摩之助次男、同主馬(水野藩士・略) 一、養祖父宮本三木之助儀、中川父志摩之助世倅にて御座候、私ためには實の伯父にて御座候。宮本武蔵と申す者の養子に仕り、児小姓の時分 本多中務様へ罷出、知行七百石下され、御近衆に召仕われ候、九曜巴紋に付け候へと仰せをもって、唯今に付け来り申し候、御替御紋と承り候、 圓泰院様、寛永三年寅五月七日 御卒去の刻、同十三日、二十三歳にて御供仕り候、 一、私父宮本九郎太郎、三木之助弟にて御座候。此者も 圓泰院様に児小姓に召仕われ候、兄三木之助殉死仕り、実子御座なく候に付、九郎太郎に跡式相違なく、 美濃守様より仰せ付られ、名も三木之助に罷り成り候、 天樹院様、 播州より江戸へ御下向成され候刻、 美濃守様御供を成され候。其の節、三木之助御供仕り候、天樹院様美濃守様へ御意にて、道中御旅館に於いて御目見え仰付られ候、 甲斐守様の御代、番頭に仰せ付られ候、内記様の御代に和州郡山に於いて、寛永十九年申九月に病死仕り候、 一、三木之助世倅、私兄、弁之助と申す、父跡式下され 内記様に罷り有り候へ共、若き時分に病死仕り、其の節、本多家を浪人仕り候、 一、私、生国大和国郡山にて御座候、十五の年、兄弁之助果て申し候。其の節より南都に罷り有り候、寛文二年寅十月十二日、江府に於いて、弐十一歳の時 当殿様へ召出され、同十一月十日、御礼を申し上げ候、今、俵六拾弐俵五人扶持下され、御式臺に相詰め、御供や御使者を、相勤め候、(略) 以後小兵衛の池田家での奉公の次第が一つ書きで元禄9年まで年を追って延々と書かれている。 まず冒頭の見出しからこの先祖附は元禄9年(1696年)、小兵衛55歳のときに岡山藩に提出したものである事がわかる。当時の役職は奥方附き足軽頭で、禄高250石であった。逆算すると小兵衛は寛永19年(1642年)の生まれである。 書き出しは先祖附で、伊勢の中川原城主の出。祖父中川志摩之助から3人の伯父、父、兄のことを書いて、自分の奉公書へと繋いでいる。 中川志摩之助は讃岐の仙石家の時分、槍働きの戦功で知行千石の鉄砲頭となり、その頃父に勘当され放浪中の水野勝成と知り合って入魂となった。後、大名になった勝成に武者奉行を頼まれて600石で仕えた。大坂の役でも槍働きをしたと伝えている。「鼻紙」とは、「とりあえず、ほんの気持ちばかり」という意味で、今後の加増を含んだ言葉であろう。 志摩之助の三男が三木之助で、宮本武蔵の養子になったといっている。即ち、三木之助は大坂の役が縁で武蔵の養子になったことを示唆しており、通説で大坂方とされていた武蔵の徳川方説の裏付けにもなっている。 宮本三木之助は本多中務大輔忠刻に児小姓から出仕し、知行700石、御近習として忠刻の身近に仕えた。主人忠刻の替え御紋であった「九曜巴紋」を使う事を許されるほど信頼され、ついに忠刻の死にお供して殉死したとしている。小倉宮本家もこの九曜巴紋なので、武蔵はこれを宮本家の定紋として、後に小笠原家に出仕する宮本伊織にも使わせたことが判る。即ち、宮本家家紋のルーツまでがこれによって明らかとなった。
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