三木おろしの開始と世論の猛反発
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「三木武夫」の記事における「三木おろしの開始と世論の猛反発」の解説
「三木おろし」も参照 2月24日、東京地検、警視庁、国税局は児玉誉士夫の自宅、丸紅本社などの一斉捜査に入り、ロッキード事件の本格捜査が開始された。捜査の過程で児玉は東京地検の臨床尋問でロッキード社からの資金提供の事実と脱税の容疑を認め、起訴された。 ロッキード事件発覚当初、自民党内では事件の政界への影響については楽観視する意見が多かった。戦後、多くの疑獄事件が明るみに出たものの、皆、真相解明は不十分なものに終わっていた。ロッキード事件もこれまで通り、政界の上層部に捜査の手が伸びる前にうやむやになるものと判断したのである。しかし今回は首相である三木が真相解明に積極的であった。三木の姿勢を見て自民党内では、ロッキード社からの工作資金を受け取ったいわゆる政府高官本人以外にも急速に不安が高まっていった。政府高官名が明らかとなり、もし逮捕されて起訴されたら自民党が受ける打撃は計り知れない。しかも前回総選挙は1972年(昭和47年)12月に行われていたため、任期満了は1976年(昭和51年)12月となり、間違いなく1年以内には総選挙が行われる。自民党内で三木のロッキード事件真相解明を妨害する動きが始まった。 三木のロッキード事件解明への姿勢に対し、最も深刻な懸念を抱いていた一人は椎名副総裁であった。これはもともと椎名の裁定によって三木が総理総裁の座に就いたことによる。椎名は三木がフォード大統領にロッキード事件解明に関する親書を送ったことを批判し、三木に対して絶縁を宣言する。この頃から自民党内で三木を退陣させる、いわゆる三木おろしの動きが始まることになる。 椎名の周辺では三木おろし、そして三木後の政権構想がうごめき始める。また三木に対する批判を強めていた田中前首相、そして大平大蔵大臣らが三木退陣への動きを強めつつあった。このような中、まず3月11日にフォード大統領から三木親書の返書が届いた。返書は資料の提供は行うが、あくまで司法による捜査に役立てるための提供であって政治的な利用は認めず、事件が解明されるまでは秘密扱いとするという内容であった。3月24日には三木親書を受けたアメリカ側の提案を受け、日米政府間で司法共助協定が結ばれた。協定では日本の検察に事件資料が提供されるとともに、アメリカ側の事件関係者に嘱託尋問を行うことが定められていた。こうして4月に入って日本の最高検察庁にアメリカ側からのロッキード事件関連資料が届けられた。 田中は4月2日の田中派総会の席で、ロッキード事件に関する自らの関与を否定する「私の所感」を読み上げた。翌日の4月3日、三木は記者会見の席で、刑事訴訟法第47条の但し書きについて述べた。刑事訴訟法47条では訴追に関する書類は公判開廷前の開示を禁じているが、但し書きに「公益上の必要その他の事由があって相当と認められる場合は、この限りではない」との例外規定を設けており、もし不起訴になった場合でも疑いがある政府高官名を公表することがあり得るとしたのである。なお三木に対して政府内の法律関係者は、刑事訴訟法第47条の但し書きについて触れないように助言していたというが、三木は自らの判断で記者会見で刑事訴訟法第47条の但し書き適用の可能性について明らかにした。 ロッキード事件の影響で国会の法案審議は停滞した。低迷していた景気回復を目指した財政特例法案は成立が困難となり、財界の三木離れも進んだ。このような情勢下で、これまで三木派、福田派、中曽根派で支えてきた三木政権から、福田派が離反の動きを見せるようになる。椎名は5月の連休明けに本格的に三木おろしに動き出した。椎名は田中、大平、福田と相次いで会談し、遅くとも通常国会が終了するまでに三木を退陣に追い込むことの合意を取り付けた。田中派、大平派、それに福田派までが三木退陣で合意すれば、党内の大多数の支持を失った三木の政権維持は不可能になり、椎名の三木おろし工作は成功するかに見えた。 しかし三木は猛然と反撃に打って出た。椎名が田中、大平、福田と三木退陣について会談した事実が明るみに出た5月13日、日経連の総会の席で「この難局処理は、四十年ひたすら議会制民主主義に捧げてきた私の政治生活の総決算だと覚悟している、中途半端に、私の使命と責任を放棄することは絶対にない」と宣言し、ロッキード事件究明と政権維持に断固たる決意を明らかにした。三木のロッキード事件徹底解明の姿勢は国民からの支持を集め、一時期低下した内閣支持率も持ち直してきていた。そのような中での椎名の三木退陣工作が明らかになると、世論から「ロッキード隠し」であるとの猛反発を浴びた。激しい世論からの反発に直面した椎名らは狼狽した。またロッキード事件の疑惑の渦中にあった田中と三木おろしについて合意し、三木内閣の有力閣僚である福田、大平が三木政権の退陣工作に乗るというのはいかにも筋が悪い話でもあり、結局椎名主導の三木おろしは失敗に終わった。
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