一家殺害計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「一家殺害計画」の解説
それまで「マドンナのような存在」としてAに思いを寄せ続けており、嫌われても逆に思い詰める感情を深めていたFだったが、先述のようなやり取りの末に殺意を抱き始め、「バイクでAの後ろから通り魔的に刺殺しよう」などと考えた。その目的を達するため、Fは凶器(文化包丁・刺身包丁・くり小刀各1本)を用意して殺害の準備を始め、用意した凶器から自分の指紋を拭き取るなどして自宅に保管した。また、自宅付近にて短時間で一家4人を殺害するための練習を行った一方、このころからは少女Aに対する「心変わりされた腹立たしさ」と「なお交際を求めたい気持ち」が入り混じった感情から、無言電話・いたずら電話でAに嫌がらせをするなど、執拗に交際を求めてAに付きまとうストーカー行為をした。しかし結果的に、A本人のみならずAの両親・妹Bからますます疎まれ、強く交際を拒絶される結果となった。 1982年5月8日19時ごろ、Fは遊園地で少女Aのために使った金の返済を要求するため、A宅のチャイムを鳴らしたが、ドア越しに応対した母親Cから「いつまでもお金のことで娘に付きまとわないで!」と非難された。これを受け、Fは「一度金を返した父親Dと直接話をしよう」と考え、20時ごろに再びA宅を訪問したが、その時も再びCが応対して「警察に知らせる」と怒鳴られ、妻の声を聞いた父親Dも玄関の電話機に手を掛けながら「110番(通報)するぞ!」と怒鳴った。Fはその場から逃げ出したが、この出来事をきっかけに「A一家の者たちから散々馬鹿にされた」と感じたため、「Aを家族もろとも皆殺しにしてやる」と企てるようになり、以前と同様に深夜に無言電話を繰り返すようになった。 その一方、Fは同時期に単独犯で2件(被害総額174万円)の窃盗事件を起こし、奪った金は母娘3人殺害事件後に逃走資金として利用した。しかし、この時点では一家殺害計画の実行時期を決めかね、しばらく遊び歩いていた。 1982年3月8日11時過ぎ、川崎市川崎区南町20番地の路上をオートバイで走行し、歩いていた無職男性(当時60歳・茨城県内在住)が住宅資金として銀行預金から下ろしてきたばかりの現金108万3,000円あまりが入ったバッグをひったくった(起訴状9件目・単独犯窃盗事件)。 1982年5月12日、藤沢市鵠沼の路上で女性から現金66万円入りの手提げバッグを奪った(起訴状10件目・単独犯窃盗事件)。 藤沢事件の3日前(1982年5月24日)深夜、Fは歌舞伎町(東京都新宿区)で元少年院仲間の少年Y(当時19歳)と再会した。Fは当時ほとんど現金を持っていなかったYに食事をおごったが、Yはこの時にFに対し「俺は犯罪で飯を食っていきたい。俺と組んでほしい」と持ち掛けた。Fは当時、Yを完全に信用できていなかったため即答を避けたが、平塚へ連れて帰り、ともに友人宅に泊まった。そして2人とも金に困っていたため、東京都内でくり小刀を使った銀行強盗を企て、第一勧業銀行新宿支店など東京都内の銀行数軒を下見したが、人通りの多さ・警戒の厳重さから断念した。 そして事件前日(5月26日)朝、FはYに「A一家を皆殺しにしたい」と打ち明けた。Yは当初、「Fにそんなことができるかよ」などと真に受けなかったが、Fから事情を聴かされて「Fとこれからも一生付き合っていきたい」と翻意し、ここにA一家4人殺害に関するF・Y両加害者の共謀が成立した。2人とも「決行時間は翌日(5月27日)20時」「事前にFが用意した刃物を凶器として用い、殺害行為はFが包丁で実行する。Yはくり小刀で電話線を切断し、家の扉にチェーンロックを掛け、家人が屋外に避難しようとするのを阻止する。」といった具体的な犯行計画を練り、Yは事前に服を着替え、Fは自身のオートバイのオイルを交換した。その後、同日は2人揃って、かつてFが在学していた平塚市立富士見小学校近くの旅館に宿泊した。 一方で被害者Aの担任教諭は「Aが校門で待ち伏せされている」などの事態を把握して在校生から平塚市内などの中学校卒業アルバムを借り、「山田等」と名乗った男(=F)の素性を調べようとしていた、また、妹Bも事件前には中学校で同級生に対し「姉 (A) が男 (F) にしつこく付きまとわれ、いたずら電話も頻繁にかかってきて困っている。怖くて外に出られない」などと悩みを打ち明けていた。
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