一二一空
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1943年10月1日、第一二一海軍航空隊が編成され、千早は偵察飛行隊長として着任。アメリカ海軍艦隊との決戦の主力を担う基地航空部隊として再建が始まった第一航空艦隊の部隊であり、養成のために大本営直轄され、千早らは訓練に従事した。 1944年(昭和19年)2月、アメリカ海軍はマーシャル諸島攻略戦により占領したメジュロ環礁を南太平洋における大規模補給基地として利用し始め、アメリカ機動部隊はハワイまで戻ることなく補給や修理を行えるようになっていた。メジュロ環礁内にどのような艦艇が出入りしていたり停泊しているか判れば、アメリカ側の次の作戦のおおよその内容と規模が推察できた。「あ」号作戦が3週間後に控えていた情勢下、海軍は敵機動部隊の動静を探るべく、メジュロ環礁への長距離強行偵察が計画された。当初、二式艦上偵察機が使用される予定だったが、まだ制式採用前ながら4月より生産開始されたばかりの高速の最新鋭機である艦上偵察機「彩雲」が配備されて、この任務に当てることとなった。 しかし、トラック島から最短ルートで飛んでも1500浬(約2700km)の彼方にあるメジュロ環礁への往復飛行は、彩雲の最大航続距離を超えていた。どこか中継地点で燃料補給する必要があり、立ち寄り先として選ばれたのが、トラック島から1000浬(約1800km)、メジュロ環礁から530浬(約1000km)に位置し、不完全ながら飛行場が設営されているナウル島であった。その頃のナウル島はまだ日本側の支配下にあったとはいえ、周りの制海権、制空権は敵の手に渡りつつあり、補給も途絶えがちであった。長距離を敵の制空圏内かそれに近い空域を飛ばねばならないこの極めて困難な作戦の成功を期するため、千早大尉に任務が課せられた。千早は121空偵察飛行隊長であったが、他に適任者がおらず飛行隊長であるにも関わらず、操縦を行い、偵察員と電信員の3名で彩雲に乗り込んだ。 5月29日朝、テニアンを出発し、途中トラックを経由し、同日午後にナウルへ到着。ナウル守備隊員たちのために彩雲の機内には、タバコなどの嗜好品を積めるだけ積み込んでいた。翌30日朝、ナウルからメジュロ環礁に向かった。環礁内にはアメリカ艦隊がおり、すぐに写真撮影を行いトラックへの帰途に就いたが、すぐにグラマンF6F ヘルキャットが追撃してきた。彩雲はこれから1500浬先のトラック島まで飛ばなければならなかったので、燃料残量を考えればただスロットル全開で飛行すれば良いという状況ではなかったが、千早はF6Fを振り切り、無事トラック島へ帰還した際は燃料ギリギリであった。前日からの総飛行距離5000km以上で、かつ敵機がいつどこから現れてもおかしくない過酷な長距離飛行であったが、千早の正確な洋上航法があっての成功であった。現像した写真から、正規空母5隻、補助空母2隻、戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦10隻、輸送船2隻、タンカー16隻が停泊中であるのが判明した。 6月8日千早は再びメジュロ環礁への偵察飛行を行う。翌9日メジュロに到着したが、敵艦隊はいなかった。この敵艦隊の出撃を捉えた千早の報告により、『あ号作戦決戦準備』が発令され、マリアナ沖海戦が生起した。戦後、当時の連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介中将は、「千早機の挺身偵察による功績」と評している。兄の千早正隆は、「開戦以来これほど敵艦隊の動静を的確にとらえたことは無かった」と評している。 偵察の日程については、5月30日早朝にトラックを出発し、巡航速度で約5時間後にナウル着、6月5日に同じルートでメジュロ再偵察を行ったとする主張もある。 テニアンに帰還した千早は、6月11日、空襲の合間をぬって敵機動部隊の偵察に出撃し、未帰還となった。「機動部隊に単機で向かうんじゃ」と笑いながら出撃した。戦死による二階級特進で、海軍大佐に任ぜられた。日本海軍では最年少の大佐であった。同期に二階級特進者は7人いるが、千早が一番早かった。
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