ワファバンク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:06 UTC 版)
ワファバンクの発祥は、モロッコとアルジェリアがフランスの植民地となった20世紀初頭にある。源流は2行だが、さしあたり片方について述べる。植民地銀行(Compagnie Française De Crédit et De Banque)は子会社をもっていたが(Compagnie Algérienne de Crédit et de Banque)、1904年その子会社がモロッコのタンジェに最初の支店を設けた。1957年モロッコが独立するとき、タンジェをふくむ38支店も独立した。1964年それらは改称した(Compagnie Marocaine de Credit et de Banques, CMCB)。1965年、財閥(Moulay Ali Kettani)がフィリップスとジョイントベンチャーを合意した。財閥は1968年CMCBの支配権を握った。1980年ATMを整備し、このころ新たな経営者(Abdelhak Bennani)を迎えた。1985年にワファバンクを名乗った(Wafabank)。業容は生保、リース、モーゲージまで拡大していた。生保事業(SNA)はノーウィッチ(Norwich Union)とセント・ポール(後のトラベラーズ)のモロッコ生保に対する支配率を買収したものであった。1993年ワファバンクは株式公開し、翌1994年に財閥当主が死んだ。会長(Abdelhak Bennani)のリーダーシップによって、2001年ワファバンクはBBVAモロッコを買収した。しかし別の買収案件(Crédit du Maroc)をめぐってはクレディ・アグリコルと対立し、ワファバンクはテイクオーバーの標的となった。2003年10月に財閥が内紛の妥協をみて、ワファバンクの持株会社をモロッコ商業銀行(Banque Commerciale du Maroc)に売却した。モロッコ商業銀行は1911年創立された強力な植民地銀行で、新ワファバンク(Attijariwafa Bank)の第二源流である。2004年、新ワファバンクはクレディ・アグリコルと提携し、かつて支配権を争った銀行(Crédit du Maroc)のアセット・マネジメント事業を買収した。なお、同年ヴィヴェンディがモロッコテレコム(Maroc Telecom)の支配権を握った。世界金融危機前後の数年間にわたって、新ワファバンクは世界展開した(欧州各国、セネガル、中東、イギリス)。2009年クレディ・アグリコルの西アフリカ事業を買収した。2010年、庶民銀行(現BPCE)と共同出資でBNPパリバモーリタニアの80%を買収した。快進撃をアラブの春に阻まれたが、2014年に欧州事業を統合してゆく中で巧くドイツ銀行と商品開発を戦略提携した。 新ワファバンクのアフリカ事業は直ちに立て直せたわけでなく、ISILの弱体化を待たねばならなかった。 新ワファバンクは日本企業がモロッコへ進出する窓口となっている。2016年には国際協力銀行と業務協力協定を締結した。両行は日本企業が参画する大型インフラ事業において協調融資を行うなど、緊密な関係を構築してきた。2013年に開催された第5回アフリカ開発会議において、日本政府は2013年から2018年までの5年間で、最大3.2兆円を官民共同でアフリカに出資すると表明している。2017年、ワファバンクが新規事業開拓を共同で検討するため、住友商事と了解覚書を締結した(9月4日発表)。住友商事グループは、1976年カサブランカに拠点を設置している。 新ワファバンクは2018年3月現在ベルギーの銀行カルテル(ABB-BVB)に参加している。 ビッグバンのころに欧州委員会は大幅介入をもって、ベルギーの銀行部門における一連の競争制限的慣行を廃止した。カルテルは対抗して三つの協定を届け出たが、それらについて欧州委員会はローマ条約第85条第1項の趣旨に反し競争制限的であると判断した。協定のうち二つは、それぞれ、リベートの具体額や、リベート送金手数料の具体額に関する条項を含んだ。三つ目の協定はオフショア市場での業務手続を定めており、そこにも競争制限的な条項が存在した。結局、欧州委員会は三協定を認めた。業務多様化という実益とローマ条約第85条第3項を根拠とし、協定の追加・修正を例外なく速やかに報告することを条件としていた。
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