ワフーの調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 16:52 UTC 版)
「ワフー (SS-238)」の記事における「ワフーの調査」の解説
元副長のオカーン大尉は戦後ワフーに関する著書を発表し、ワフーの捜索を計画していたが1994年に死去した。 1995年以降、モートン艦長の親類を中心に日米関係者に加えロシア、オーストラリアの4カ国の人々からなる「ワフープロジェクトグループ」がワフーの船体の捜索を開始。その際、旧日本海軍の資料から、重油の尾を引きながら逃走を図るワフー最後の写真も発見された。長年の捜索の結果、2006年8月にロシア人ダイバーが海底に横たわるワフーの船体を発見、写真に撮影し公開した。 沈没したと思われる海域では、1945年に留萌沖で引き揚げ船に攻撃を加えた(三船殉難事件)ソ連赤色海軍の潜水艦L-19も沈没している(L-19は現在も行方不明)。 宗谷海峡では、しばしば船体の金属片が漁船により引き上げられるなど、沈没船の存在が確認されているが、米ソどちらの潜水艦のものかの確定には至っていなかったが、2006年10月31日、アメリカ海軍はロシア人ダイバーが撮影した船体がワフーであると確認。ワフーは宗谷海峡中の水深65メートルの海底に横たわっていた。甲板中央付近には航空機からの爆弾による破壊の跡が確認でき、これがワフーの致命傷になったと推測された。 2007年7月8日、アメリカ海軍の艦船が沈没現場海上で米露両海軍主催による花輪献呈式を行った。同年10月11日には真珠湾のボーフィン (USS Bowfin, SS/AGSS-287)・サブマリンミュージアム&パークでワフー乗組員のための公式追悼式を執り行い、ワフープロジェクトグループが捜索と発見の経緯について説明した。同公園には、現在記念碑が建てられている。
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