ワシントンの任期 1789年-1797年
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「アメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)」の記事における「ワシントンの任期 1789年-1797年」の解説
詳細は「ジョージ・ワシントン」および「1789年大統領選挙」を参照 アメリカ独立戦争の有名な英雄、大陸軍の総司令官およびフィラデルフィア憲法制定会議議長であったジョージ・ワシントンが、新しい合衆国憲法の下で初代大統領となった。 ワシントンは当時のアメリカ合衆国政治史で最も人気有る人物であり、「建国の父」と宣言され、1789年の第1回大統領選挙は実質上反対無しで当選した。議会の選挙人投票では全会一致で選ばれたが、全会一致というのはそれ以後一度も無い。ワシントンの選出に一般投票は無かった。 ワシントン大統領の下で、アメリカ合衆国憲法第1条第2節の要求を満たすため、1790年に第一回アメリカ合衆国国勢調査が行われた。この国勢調査の結果により、各州の下院選挙区の数が決められ、各選挙区から1人の下院議員が選ばれた。 議会は1789年の司法制度法を可決し、連邦司法制度の全体を確立した。同時にこの法は最高裁判所の判事を6人とし、3つの巡回裁判所、13の地方裁判所も定めた。また、連邦保安官、保安官補、および地区検事を創出した。さらに、州法と連邦法が食い違った場合に州と連邦政府の間を調停するものとして最高裁判所を創った。1790年妥協によって、国の首都を南部のメリーランド州(現在のコロンビア特別区)に造ることを決め(首都立地法)、州の負債を連邦政府が肩代わりすることを可能にした。 詳細は「1792年大統領選挙」を参照 1794年にペンシルベニア州西部のモノンガヘラ渓谷の開拓者が蒸留酒に対する連邦の課税に対して反抗した、いわゆるウィスキー税反乱は、連邦政府を試す最初の機会になった。ワシントンは連邦保安官に対し、税に反対する者達が連邦地区裁判所に出頭するように裁判所が命令を下すのを助けることを命じた。8月までに抗議運動は反乱に近い危険なものになり、8月7日、数千の武装した開拓者がピッツバーグ近くに集まった。ワシントンは1792年の民兵法を適用し、幾つかの州から民兵を集めた。独立戦争の全軍にほぼ等しい13,000名の軍隊が組織された。この軍隊が西ペンシルベニアに行軍し、速やかに反乱を鎮圧した。反乱の指導者2人が反逆罪で起訴されたが、ワシントンに許された。この反応は新しい憲法下で連邦政府が強力な軍事力を使って国民にその権力を行使した最初のこととなった。ウィスキー税は、あまり成功を収めないまま、1802年に撤廃された。 ワシントンの2期にわたる任期中、他の大きな政策決定には、大統領顧問団の2人が関わった。財務長官としてのアレクサンダー・ハミルトン、国務長官としてのトマス・ジェファーソンである。この二人は、それぞれ連邦党と民主共和党という党派の形成に関わったように政治的な考え方を異にしていた。ワシントンはその退任演説で政党そのものに警告を発していたが、その任期の終わり頃はワシントンが連邦主義者だと感じ取るものが多かった。ウィスキー税反乱を押さえたやり方にこの傾向が現れている。 ワシントンは、外交的には中立政策を貫こうと願っていたが、合衆国が成長するにつれて外交問題が増えていった。
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