ワシントンの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 05:59 UTC 版)
「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」の記事における「ワシントンの反撃」の解説
ワシントンはいかにしてその軍隊を纏めていくかに苦慮する中で、比較的無防備なイギリス軍前進基地への攻撃を計画した。そこは民兵と軍隊による襲撃が続いたために常に不安定な状況になっていた。ドイツ人指揮官カール・フォン・ドノープとヨハン・ラールはその旅団が前進基地の並びの外れにあり、これら襲撃の標的にされることが多かったが、イギリス軍のジェイムズ・グラント将軍に繰り返し警告し、支援を求めても無視されていた。 ワシントンは12月半ばからトレントンにあるラールの前進基地を2方向から攻め、ボーデンタウンにあるドノープの前進基地を3番目の部隊が陽動攻撃する作戦を立てた。この作戦は偶然ある民兵中隊がドノープの全軍2,000名をボーデンタウンから南に引き付け、12月23日のマウントホリーでの小競り合い(アイアンワークスヒルの戦い)に繋がったことで助けられた。その結果、ワシントンがトレントンに攻撃を掛けたときにドノープ隊がラール隊を助けられない位置におくことになった。クリスマスの夜、ワシントンと2,400名の部隊が密かにデラウェア川を渡り、12月26日朝のトレントンの戦いでラールの前進基地を急襲し、1,000名近いドイツ人傭兵を殺害あるいは捕獲した。この勝利で大陸軍の士気を著しく上げたが、コーンウォリスをニューヨークから引き出すことにもなった。コーンウォリスは6,000名以上の部隊を集結させ、その大半を率いてワシントンがトレントンの南に布いていた陣地に向かった。コーンウォリスは1,200名の兵士をプリンストンの守備隊として残し、1月2日にワシントンの陣地を攻撃したが、3度撃退され、その後に日が暮れた。ワシントンは夜の間にまたもやひそかに軍を動かし、コーンウォリス軍を迂回してプリンストンの守備隊攻撃に向かった。 大陸軍の前衛隊を指揮していたヒュー・マーサー将軍はチャールズ・モーフッドの指揮するプリンストンからのイギリス部隊と遭遇した。その結果起こったプリンストンの戦いでマーサーが致命傷を負った。ワシントンはジョン・カドワラダー将軍の下に援軍を送り、モーフッドとプリンストンからの部隊を追い返すことに成功した。イギリス部隊はトレントンのコーンウォリス隊の所に逃亡した。この戦闘でイギリス部隊はその勢力の4分の1以上を失い、大陸軍の士気はさらに上がった。 ハウ将軍はこの敗北によってその軍隊の大半をニュージャージーから引き上げあせることとなり、ニューブランズウィックとパースアンボイの前進基地のみを残した。ワシントン軍はニュージャージーのモリスタウンで冬季宿営に入り、ニュージャージーの大半をイギリス軍から取り戻した。しかし、両軍共に糧食が足りなくなり、その指揮官達は部隊を派遣して食料などの物資を略奪させた。その後の数ヶ月間は「まぐさ戦争」と呼ばれ、互いに物資を求める敵部隊への襲撃を続けた。このことでミルストーンの戦いなど多くの小競り合いや小戦闘が起こった。イギリス軍は糧食の問題で仲間内でも詰り合った。パーシーはニューヨークとニュージャージーに物資を供給するためのニューポート基地の能力についてハウと意見の不一致が続いた後、その任務を辞した。
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