ワシントンと奴隷制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 00:25 UTC 版)
「ジョージ・ワシントン」の記事における「ワシントンと奴隷制」の解説
アメリカ独立戦争の前に、奴隷制について道徳的な留保を表明することはなかったが、1778年までに黒人奴隷の家族を壊すことを望まなかったので奴隷の同意なしに売買することをやめた。 1778年、戦争のまっただなかであったが、マウントバーノンの管理人に宛てて手紙を書き、大量の(また徐々に年取りつつあった)奴隷を使っていくことはもはや経済的に非効率なので、奴隷を売り「黒人とは縁を切り」たいと言った。しかし法律的には「妻の財産の奴隷」を売ることができず、その奴隷たちが自分の奴隷たちと結婚していたので、その家庭を壊さずに売り払うことはできなかった。 戦後、個人的にはしばしば奴隷制度を嫌悪すると言っていた。ただし私人として疑念を表してはいたものの、それを公の場で批判することはなかった。実際に大統領としてのワシントンはフィラデルフィアの官邸に9人の家付き奴隷を連れてきていた。ペンシルベニア州の法律では、州内に居住した奴隷は6か月後に合法的に自由になるとされていた。ワシントンはマウントバーノンとフィラデルフィアの間で家付き奴隷を入れ替え、彼らに自由を与えないようにした。彼の採ったこの考え方は奴隷や大衆からは見えないようにされており、事実違法でもあった。 ワシントンは奴隷を解放したことでは唯一の著名な建国の父であった。しかし、生きている間は解放せず、妻が死んだ時に自分の奴隷を解放するよう遺言を残した。その地所であるマウントバーノンにいた奴隷全部がワシントンの財産ではなかったことを理解するのは重要である。妻のマーサは多数の奴隷を所有しており、妻の領地からマウントバーノンに移ってきた奴隷を一方的に解放することができるとは思っていなかった。彼の行動はラファイエットとの親密な付き合いで影響されていた。マーサはその人生の後半に権利を得た奴隷を解放することはできた。ワシントンは表立って奴隷制に反対を表明しなかったが、歴史家のドロシー・トゥーヒッグは、既に神経質で対立的な問題になっていたことで誕生間もない共和国を2つに割る危険を望まなかったからだと主張した。
※この「ワシントンと奴隷制」の解説は、「ジョージ・ワシントン」の解説の一部です。
「ワシントンと奴隷制」を含む「ジョージ・ワシントン」の記事については、「ジョージ・ワシントン」の概要を参照ください。
- ワシントンと奴隷制のページへのリンク