ローマ - 東京間飛行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 04:36 UTC 版)
「サヴォイア・マルケッティ SM.75」の記事における「ローマ - 東京間飛行」の解説
(本項目の燃料搭載重量と容積の換算は大幅に間違っている。英語版の段階でこの間違いは発生しており、イタリア語版には詳細な燃料等裁量の記述がない。英ガロンと米ガロンの換算間違いよりも大きな誤差なので、現時点で重量が正しいのか、容積が正しいのか不明。一般的には、航空機関士が乗務するような航空機では重心位置が最も重要なため、重量をもって様々な計算を行う)。 SM.75 GA初号機を失った後で2機目のSM.75(シリアル番号:MM.60539)が、第二次世界大戦中のローマ - 東京間飛行用にSM.75 GA仕様に改装された。1942年6月9日に準備が完了し、SM.75 GA RT(「"Rome - Tokyo"」の意)と命名された。操縦士のアントニオ・モスカテッリ(Antonio Moscatelli)中佐が任務全体の責任者に任命されると共にイタリアは英国が既存の暗号を解読していると確信していたため、イタリアの航空技量を宣伝するために日本と枢軸国の間の通信に新しい暗号を用いた。イタリアと戦争状態にあったソビエト連邦領空の数千kmを飛行する必要性と著しく長距離の飛行の実施ということがこの飛行を困難なものとしていた。 モスカテッリ操縦のSM.75 GA RTは1942年6月29日 05:30にグイドーニアを離陸し、その日の内に2,030 km (1,261 ml) 離れたドイツ占領下のウクライナのザポリージャにある枢軸国が使用できる最東端の飛行場に着陸した。日本(当時はソ連と戦争状態に無かった)を困惑させることになるような書類や証拠品を持たず、搭乗員はもし敵領域に着陸せざるを得なくなった場合は機体と証拠書類を焼却処分するように命令されていた。 重量21,500 kg (47,400 lb) の内 11,000 kg (24,250 lb) -- 10,340 リットル (2,721 ガロン) --の燃料を搭載した過荷重状態のSM.75 GA RTがザポリージャの700 m (2,297 ft) の草地滑走路から離陸するのは困難で危険をはらんでいた。厳格な通信封鎖が実施され、ソ連軍の対空砲火、悪天候、ソ連軍戦闘機(おそらくヤコヴレフ Yak-1)との遭遇にも関わらず夜間を無傷で過ごし、アラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空を横断した。地図上のソ連領内の位置が不正確なことがわかりモスカテッリは発見されることを避けるために高度を5,000 m (16,404 ft) まで上げなければならず、これにより予定よりも早く機体に備えた備蓄酸素を使い切ってしまった。モンゴル上空では砂嵐にも巻き込まれたが、1942年6月30日 22:00に搭乗員は黄河を視認し、最後の燃料を使用してザポリージャから東に6,000 km (3,728 ml) にある日本占領下の内モンゴル、包頭の海抜1,000 m (3,280 ft) 以上にある1,300 m (4,270 ft) 滑走路に1942年7月1日 15:30に着陸した。日本の空域内で安全なように日本の標識が施された機体は通訳を同乗させ、東京への2,700 km (1,678 ml) の最終レグを飛行した。 日本側としてはソ連を刺激しないようにこの事実は内密にされ、モスカテッリ中佐以下も事実上日本で軟禁されたような状況に置かれた。また帰路に辻政信陸軍中佐の同乗も要求したが、これは丁重に断られた。 1942年7月16日にSM.75 GA RTは帰路につき、包頭に到着すると日本の標識はイタリアのものに再度変更された。1942年7月18日 21:45に包頭を離陸し、往路を辿り29時間25分の滞空、6,350 km (3,950 ml) を飛行してウクライナのオデッサに着陸した。この後、モスカテッリはグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、この任務を完遂した。外交上の理由による日本の不同意にも関わらず、イタリアは1942年8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった。
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