ロビンソンとスタインマンとは? わかりやすく解説

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ロビンソンとスタインマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/30 08:51 UTC 版)

デビッド・スタインマン」の記事における「ロビンソンとスタインマン」の解説

1920年5月、ホルトン・ロビンソン(Holton D. Robinson1863年1945年ウィリアムズバーグ橋設計者)が、協同ブラジルのエルシーリオ・ルース(Hercilio Luz BridgeFlorianópolisフロリアノーポリス)とも)の設計コンペ参加しないかと呼びかけてきた。建築家であるチャールズ・フォウラー(Charles Fowler)に相談したあと、スタインマンはこの申し出を受け、1921年協同でロビンソン・アンド・スタインマンを設立した。このパートナーシップ1940年代まで続いた。 彼らはすぐに契約勝ち取ることはできなかったが、このプロジェクトや他のものに働きかけ続けた1920年代初期社会情勢から橋梁建設困難な時期でもあった。そのため、スタインマンはアーティスティックなものよりは経済的なめざした。たとえば、ロビンソンとスタインマンは吊橋であるエルシーリオ・ルースオリジナルプラン変更しメインケーブル代わりにアイバー称するピン結合され帯状チェーン使い、それをもって補剛桁の上弦を兼ねることを案出した。この方式は、オリジナルプランよりも材料大幅に減らすことができる上に堅牢製(耐風性)も向上することができた。これにより、スタインマンは橋梁エンジニアとしての名声を得ることができた。 1920年代から1930年代にかけてはとても多忙な日々送ったその間主として次のようなプロジェクトに関わった。 エルシーリオ・ルース - 1926年吊橋。 カークィネス・ストレート(Carquinez_Bridge) - 1927年当時アメリカ第2位長さカンチレバートラス橋マウント・ホープ(Mount_Hope_Bridge) - 1929年吊橋。 グランド・メア吊橋Grandre Suspension Bridge) - 1929年吊橋セント・ジョーンズ(St._Johns_Bridge) - 1931年 ワルド・ハンコック(Waldo-Hancock_Bridge) - 1931年 スカイ・ライド(Sky_Ride) - 1933年シカゴ万国博覧会_(1933年) におけるアトラクションヘンリー・ハドソン橋(Henry_Hudson_Bridge) - 1936年。スタインマンのPh.D.論文に基づく。 ウェルズリー・アンド・ヒル・アイランド(Wellesley and Hill Islands Bridge) - 1938年 ウェルズリー・アイランド吊橋(Wellesley Island Suspension Bridge) - 1938年 ジョルジナ・アイランド(Georgina Island Bridge) - 1938年 ディア・アイルDeer Isle Bridge) - 1939年 サリバン・ハットソンビル(Sullivan-Hutsonville Bridge) - 1939年。 スタインマンは、多く設計しただけでなく、事務所契約勝ち取れかったいくつかのプロジェクトにもコンサルタントとして関わった。「ギャロッピング・ガーティ」と称され1940年11月7日に風のために落橋したタコマナローズ橋についての調査知られている。 1920年代に、スタインマンは吊橋振動増加することについての研究進めていた。しかし、彼の設計採用されることはなく、それに対して不満を抱いていた。1938年、彼は米国土木学会構造物分会で、すでに着工されていたタコマナローズ橋設計者聴衆迎えて調査結果発表した。やがて、実際にタコマナローズ橋落橋した。スタインマンは、サウザンド・アイランドにおいて、ケーブルステーを主塔下部からケーブル向けて斜めに架けることで吊橋振動抑える方法採用し実際に振動抑えることに成功していたのだが、それが採用されることのなかったタコマナローズ橋落橋している。このことは、スタインマンの設計考え方重大な影響及ぼした、と彼は書き残している。 スタインマンの代表作としては、時速365マイルの風(風速163メートル)に耐えられるマキナック橋想起されるが、スタインマン自身は、自分がもっと思い入れのあるとしてセント・ジョーンズ挙げている。 この間、スタインマンはアメリカエンジニア協会American Association of Engineers)の会長となり、同時に厳格な教育と職業対す倫理的な規範を持つべしという運動をした。また1934年にはアメリカプロフェッショナルエンジニア協会National Society of Professional Engineers、NSPE)を設立し初代会長となった1930年代半ばまでに、スタインマンはアメリカ橋梁エンジニアとしての卓越したプロフェッショナルとして名声得ていた。とくに長スパン吊橋彼の設計によるは、ライバルであるオスマー・アマンのジョージ・ワシントン橋1931年)やジョセフ・ストラウスのゴールデンゲートブリッジ1937年)の影に隠れてしまった。スタインマンの提案による、ニューヨーク・セントラル鉄道のクロス・ハーバーリバティ)は、1940年タコマナローズ橋落橋による吊橋への疑念から、採用には至らなかった。

※この「ロビンソンとスタインマン」の解説は、「デビッド・スタインマン」の解説の一部です。
「ロビンソンとスタインマン」を含む「デビッド・スタインマン」の記事については、「デビッド・スタインマン」の概要を参照ください。

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