ロビンソンとスタインマン
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「デビッド・スタインマン」の記事における「ロビンソンとスタインマン」の解説
1920年5月、ホルトン・ロビンソン(Holton D. Robinson、1863年-1945年。ウィリアムズバーグ橋の設計者)が、協同でブラジルのエルシーリオ・ルース橋(Hercilio Luz Bridge、Florianópolis橋(フロリアノーポリス橋)とも)の設計コンペに参加しないかと呼びかけてきた。建築家であるチャールズ・フォウラー(Charles Fowler)に相談したあと、スタインマンはこの申し出を受け、1921年に協同でロビンソン・アンド・スタインマンを設立した。このパートナーシップは1940年代まで続いた。 彼らはすぐに契約を勝ち取ることはできなかったが、このプロジェクトや他のものに働きかけ続けた。1920年代初期は社会情勢から橋梁建設が困難な時期でもあった。そのため、スタインマンはアーティスティックなものよりは経済的な橋をめざした。たとえば、ロビンソンとスタインマンは吊橋であるエルシーリオ・ルース橋のオリジナルプランを変更し、メインケーブルの代わりにアイバーと称するピンで結合された帯状のチェーンを使い、それをもって補剛桁の上弦を兼ねることを案出した。この方式は、オリジナルのプランよりも材料を大幅に減らすことができる上に堅牢製(耐風性)も向上することができた。これにより、スタインマンは橋梁エンジニアとしての名声を得ることができた。 1920年代から1930年代にかけてはとても多忙な日々を送った。その間に主として次のようなプロジェクトに関わった。 エルシーリオ・ルース橋 - 1926年。吊橋。 カークィネス・ストレート橋(Carquinez_Bridge) - 1927年。当時、アメリカ第2位の長さのカンチレバートラス橋。 マウント・ホープ橋(Mount_Hope_Bridge) - 1929年。吊橋。 グランド・メア吊橋(Grand Mère Suspension Bridge) - 1929年。吊橋。 セント・ジョーンズ橋(St._Johns_Bridge) - 1931年 ワルド・ハンコック橋(Waldo-Hancock_Bridge) - 1931年 スカイ・ライド(Sky_Ride) - 1933年。シカゴ万国博覧会_(1933年) におけるアトラクション。 ヘンリー・ハドソン橋(Henry_Hudson_Bridge) - 1936年。スタインマンのPh.D.論文に基づく。 ウェルズリー・アンド・ヒル・アイランド橋(Wellesley and Hill Islands Bridge) - 1938年 ウェルズリー・アイランド吊橋(Wellesley Island Suspension Bridge) - 1938年 ジョルジナ・アイランド橋(Georgina Island Bridge) - 1938年 ディア・アイル橋(Deer Isle Bridge) - 1939年 サリバン・ハットソンビル橋(Sullivan-Hutsonville Bridge) - 1939年。 スタインマンは、多くの橋を設計しただけでなく、事務所が契約を勝ち取れなかったいくつかのプロジェクトにもコンサルタントとして関わった。「ギャロッピング・ガーティ」と称され、1940年11月7日に風のために落橋したタコマナローズ橋についての調査も知られている。 1920年代に、スタインマンは吊橋の振動が増加することについての研究を進めていた。しかし、彼の設計が採用されることはなく、それに対して不満を抱いていた。1938年、彼は米国土木学会の構造物分会で、すでに着工されていたタコマナローズ橋の設計者を聴衆に迎えて調査結果を発表した。やがて、実際にタコマナローズ橋は落橋した。スタインマンは、サウザンド・アイランド橋において、ケーブルステーを主塔下部からケーブルに向けて斜めに架けることで吊橋の振動を抑える方法を採用し、実際に振動を抑えることに成功していたのだが、それが採用されることのなかったタコマナローズ橋は落橋している。このことは、スタインマンの設計の考え方に重大な影響を及ぼした、と彼は書き残している。 スタインマンの代表作としては、時速365マイルの風(風速約163メートル)に耐えられるマキナック橋が想起されるが、スタインマン自身は、自分がもっとも思い入れのある橋としてセント・ジョーンズ橋を挙げている。 この間、スタインマンはアメリカエンジニア協会(American Association of Engineers)の会長となり、同時に厳格な教育と職業に対する倫理的な規範を持つべしという運動をした。また1934年にはアメリカプロフェッショナルエンジニア協会(National Society of Professional Engineers、NSPE)を設立し、初代会長となった。1930年代半ばまでに、スタインマンはアメリカの橋梁エンジニアとしての、卓越したプロフェッショナルとしての名声を得ていた。とくに長スパンの吊橋、彼の設計による橋は、ライバルであるオスマー・アマンのジョージ・ワシントン橋(1931年)やジョセフ・ストラウスのゴールデンゲートブリッジ(1937年)の影に隠れてしまった。スタインマンの提案による、ニューヨーク・セントラル鉄道のクロス・ハーバー橋(リバティ橋)は、1940年のタコマナローズ橋の落橋による吊橋への疑念から、採用には至らなかった。
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