プログラムピクチャーの名手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:33 UTC 版)
「マキノ雅弘」の記事における「プログラムピクチャーの名手」の解説
1937年(昭和12年)にマキノ・トーキーは資金難により解散し、正博ももう2度とプロダクションは持つものかと心に決め、一介の雇われ監督として日活に招かれる。しかしこの間、日活に所属していたスターの阪東妻三郎(『恋山彦』『血煙高田の馬場』)、片岡千恵蔵(『江戸の荒鷲』)、月形龍之介(『妖棋伝』)らの主演作を休む暇もなくスピーディに撮りつづけ、いずれもヒット作となった。 1939年(昭和14年)には和製オペレッタ映画『鴛鴦歌合戦』を監督、公開当時はあまり大きな反響がなかったが、後年、再評価が高まり、現在では『血煙高田馬場』に並んで正博の戦前の代表作となっている。 1本の作品を約10日程度で撮り上げてしまう正博であったが、特に『鴛鴦道中』はなんと撮影期間28時間という超人的な離れ業もやってのけた。負債は完済し、女優の轟夕起子と結婚した(1940年結婚 - 1950年離婚)。この頃までに正博は「早撮りの名人」の異名をとるが、それは以前から「早撮監督」として知られていた渡辺邦男もうなるほどの技量だった。 正博は人形浄瑠璃を学び、女優に対する演技指導では自ら演技をしてみせた。1940年頃には、当時まだ10代だった藤間紫が踊る日本舞踊に感銘を受け、以後はもっぱら日本舞踊を研究し、その所作を女優の演技指導に活用するようになる。松竹太秦撮影所長に就任する。 第二次世界大戦後はヒロポン中毒に苦しんだこともあったが、黒澤明脚本による『殺陣師段平』、村上元三原作の「次郎長三国志」シリーズ(東宝で9部作、東映で4部作)、東映では仁侠映画の走りとなった『日本侠客伝』シリーズなど数々の傑作を生み出し、高倉健らを銀幕の大スタアの座に押し上げるのに一役買った。藤純子を自宅に住まわせ、女優のイロハを一から叩き込み、彼女を東映随一の女優に育てあげたり、日活では「梶芽衣子」の名付け親にもなっている。 1960年(昭和35年)には、生放送のテレビドラマ『秋葉の宿』でテレビにも進出。1965年(昭和40年)の『竜馬がゆく』などを手掛けたほか、1968年(昭和43年)には父・省三の生涯を描いた『カツドウ屋一代』を映像化した。テレビドラマ・テレビ映画は、1981年(昭和56年)の『旅がらす事件帖』最終回まで手掛けた。 1971年(昭和46年)岡田茂の東映社長就任と同時に東映を退社。 1972年(昭和47年)に監督した東映オールスター映画『純子引退記念映画 関東緋桜一家』が最後の劇場作品となった。同作は興行的には大成功だったが、批評家からはあまり高く評価されず、これが映画監督引退を決断するきっかけの一つとなった。 1977年(昭和52年)、山田宏一および山根貞男の構成により『マキノ雅弘自伝 映画渡世 天の巻・地の巻』を平凡社から上梓する。 1993年(平成5年)10月29日、死去した。85歳没。サッカーファンで、臨終の床でもいわゆる「ドーハの悲劇」の試合をテレビで観戦しており、試合途中で日本代表の勝利を確信して死去したという。
※この「プログラムピクチャーの名手」の解説は、「マキノ雅弘」の解説の一部です。
「プログラムピクチャーの名手」を含む「マキノ雅弘」の記事については、「マキノ雅弘」の概要を参照ください。
- プログラムピクチャーの名手のページへのリンク