プロからノンプロへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 07:18 UTC 版)
「日本女子野球連盟」の記事における「プロからノンプロへ」の解説
1952年のシーズン前に、日本女子野球連盟はそれまで女子「プロ」野球を標榜していたものをノンプロ=社会人野球に転換した。「プロ」と言っても企業のバックアップがなければ経営が成立しないことがはっきりしたこと、審判を主に社会人野球の審判に依頼していたため「『プロ』の名称はまずい」というクレームがついたことなどが理由である。また特に地方遠征の手配などは前時代的な興行師に委ねざるを得ない状況であり、このままでは多数の妙齢の女性を抱える球団として問題が起こりかねないという懸念もあった。 選手たちは親会社の社員となってシーズン中も勤務し、午後勤務を終えてからクラブ活動として野球の練習を続けるという形になった。ただし、地方遠征の際には出張扱いとするなど配慮はされていた。 プロからノンプロへの移行期に圧倒的な強さを発揮したのは岡田乾電池(旧岡田バッテリーズ)であった。同チームはプロ時代の1951年に始まって、1955年まで5年連続で日本選手権を制覇している。岡田乾電池の強さの原動力となったのは田辺桂子・君島政子の両エースであり、君島は4番打者としてもチームを牽引した。 1953年1月、東京都世田谷区の紅梅製菓が女子野球部を設立し日本女子野球連盟に加盟した。チーム名は『紅梅ミルクキャラメル』だった。しかし同チームは1954年には解散し、主力選手は同じ製菓メーカーの坂口翁女子野球部に移籍した。1954年秋季の順位表は下記の通りである。 順位チーム名勝敗分1 岡田乾電池 8 2 0 2 三共 6 4 0 3 エーワンポマード 5 4 1 京浜急行 5 坂口翁 4 6 0 6 わかもと製薬 0 8 0 1955年のシーズン後、5連覇を達成した岡田乾電池がレイ・オ・バック社に吸収合併されたために解散した。エースの田辺桂子、君島政子をはじめとする主力選手もそれを機に現役を引退した。 1956年6月には坂口翁も解散となったが、8月に白元が旧岡田乾電池と坂口翁の選手を引き継いで女子野球部を創設した。しかし12月にはエーワンポマード本舗も解散となり残る球団は三共、京浜急行、わかもと、白元の4チームとなった。 1958年にはわかもとが解散した。ほぼ同時に久光製薬サロンパス本舗が女子野球部を創設し、主力選手はサロンパスに引き取られた。 1958年から1962年まで、三共が日本選手権5連覇を果たした。三共の中心選手はエースで4番の大和田恵美子投手、助監督の秦孝子捕手、主将の中村桂子投手などだった。特に大和田は、身長170cmと恵まれた体格を活かした剛速球で名をはせた。大和田は1957年新人王、1958年から1961年まで4年連続で最優秀投手、1961年1962年最高殊勲選手、1965年首位打者など数々のタイトルを獲得した。秦の引退後は助監督も務めた。 この間1959年、日本女子野球連盟が解散し日本女子野球協会が設立された。同時に、選手のユニフォームもショートパンツから長ズボンに変更された。6月には京浜急行が女子野球部を解散した。 その後、下記のようなチームが生まれては消えていった。 キンケイ食品:1959~1960年 リコー時計:1963~1966年 ニッカウヰスキー:1966~1967年 三共の全盛時代の後、1963年から1967年まで5連覇を果たしたサロンパスの中心となったのはエースで4番の近藤信子投手であった。近藤はもともと1950年のプロ創設時から内野手としてプレーしていたがいったん引退するなど紆余曲折の末にサロンパスに加入し、20代後半になってから才能が開花した遅咲きの選手であった。1963年から1967年まで5年連続で最高殊勲選手、1963年から1966年まで4年連続で最優秀投手を受賞し「おんな長嶋」の異名を取った。1965年春季のリーグ戦で近藤は7勝0敗(7完封)、防御率0.1という驚異的な成績を残している。オーバースロー、サイドスロー、アンダースローを使い分けカーブ、シュート、スライダーといった変化球を駆使する近藤の前に相手チームは凡打の山を築いた。三共の大和田とサロンパスの近藤の対決は、どちらが投げてどちらが打つ場合も1960年代前半における女子野球最大の名勝負と言われた。
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