フランス留学から帰国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 07:38 UTC 版)
「ポル・ポト」の記事における「フランス留学から帰国へ」の解説
1年後に奨学金を得て宗主国フランスの首都パリへ留学、グランゼコールの一つであるフランス国立通信工学校(エコール・フランセーズ・ド・ラディオエレクトリシテ、現フランス国立情報工学校)に入校して2年間の技術課程を受ける。フランスには1949年9月に到着した。留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。このグループは、主としてパリに留学した学生が中心となって1950年にフランス共産党内に作られた「クメール語セクション」に形成された。メンバーは、ラット・サムオン(Rath Samuoeun)、イエン・サリ、フー・ユオン、ポル・ポト、ケン・ヴァンサク(Keng Vannsak)、チオン・ムン(Thiounn Mumm)、トゥック・プーン(Touch Phoeun)、メイ・マン(Mey Mann)、メイ・パット(Mey Path)、チ・キム・アン(Chi Kim An)、シエン・アン(Sien An)、キュー・サムファン、キュー・ポナリー、キュー・チリト、ソン・センなどである。リーダーは、ラット・サムオンとイエン・サリだった。チオン・ムンらは活発に活動していたが、この当時は、フー・ユオンやポル・ポトはむしろ目立たない存在だった。 フー・ユオンは勉強に集中しており、ポル・ポトは個性をあらわしてはいなかった。ただ、この当時から両者の主張には隔たりが大きかった。彼らは共産主義グループではあったが、その主義、主張はかなり幅広く、全体としては、共産主義というよりもむしろ反王政派、民族主義だった。又、母国の共産主義活動からは遊離しており、観念的であった。 このグループの中で民族主義とは一線を画していたのが、ポル・ポトとイエン・サリである。パリ時代に、謄写版で発行されていた内部機関紙Khemera Nisitの1952年8月号でポル・ポトは「本来のクメール人」(khmaer da'em)というペンネームで、フランス、ロシアと1924年の中国革命に関する記事を書いた。その他のメンバーが「自由クメール」「クメール人労働者」といったペンネームを使っていたことに比べて、これを以ってポル・ポトがこの当時から人種差別的な傾向を持っていたと推測する文献もある。またこの時期のイエン・サリは、ソ連国内の少数民族政策を論じたヨシフ・スターリンの文章に興味を示している。その他、書類によって共産党組織をコントロールするスターリンのテクニックに引きつけられたとも述べている。 ポル・ポトは試験に3年連続で失敗し、奨学金を打ち切られたため、1952年12月に船でフランスを後にし、1953年1月14日にカンボジアに帰国した。その後、チャムロン・ヴィチェア(Chamroeun Vichea)私立高校で歴史の教師として働き始める一方、民主党で活動を行っていた。この時期は、新たにフランスから帰国したシエン・アン、ケン・ヴァンサク、そしておそらくはユン・ソウン(Yun Soeun)、チ・キム・アン、ラット・サムオンらと共に民主党をより左傾化させようと工作していた。1953年8月、兄のサロット・チャイ(Saloth Chhay)を介して、コンポンチャム州のヴェトナム国境周辺にあったクメール・イサラク連合(Khmer Issarak Accosiation)の本部へ行き、独立闘争に加わる。 その後約1年間生産部隊に配属され、食事の雑用や、耕作用の有機肥料の運搬などに従事していた。しかし、パリ帰りのインテリでありながら政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部やリーダーとして昇進できなかったことに深い恨みを抱いたようである。また、この時期にヴォン・ヴェトと知り合う。ポル・ポトは本部でフランス共産党のメンバーだと自己紹介したが、その時会見したチェア・ソット(Chea Soth)によれば、「彼は、闘争に参加し我々から学びたいと言ったが、本当は、実際にクメール人が革命を実行しているかどうかを探りにきたのだ。彼は、すべては、自己にのみ頼り、独立と自制にもとづいてなされねばならない。クメール人は何でも自分自身で行うべきだと言っていた。」ということである。1956年、パリで知り合った夫人キュー・ポナリーと結婚した。結婚にはフランス革命記念日が選ばれた。
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