フランス留学と戦争画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 10:32 UTC 版)
1927年(昭和2年)、当時最も安い経路だったシベリア鉄道を使いフランスへ向かう。滞仏中は、午前中はルーブル美術館で模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールで素描をおこなうのが日課であった。潤吉は後年「私の如き貧乏の画学生には、費用のかからないそして自由に名画に接し得られる美術館での勉強はまことに有り難かった」と述懐している。模写した作品はヴェネツィア派からバロック絵画にかけての作品が目に付く他、コローの作品が多い。その一方で、スーティンやココシュカを想起させる荒々しい筆触の作品も描いており、フォーヴィスムへの接近を色濃く感じさせる。 3年後の1930年(昭和5年)に帰国し、模写の展覧会を開く。同年結婚、また、二科会に渡欧中に制作したフォーヴィスム調の作品11点を出品、樗牛賞を受ける。1933年(昭和8年)、東京都世田谷区弦巻に転居し、以後没年まで居住する。1937年(昭和12年)、個人の資格で中国の天津、北京、大同方面に従軍、1938年(昭和13年)、大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、潤吉も会員となり戦争画を描く。1944年(昭和19年)インパール作戦に同作品を記録するため作家・火野葦平と共に従軍、2人は協力して危険をくぐり抜けビルマまで戻っている。帰国後は軍需生産美術推進隊隊員として、各地の炭坑で制作を続けた。
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