フランス皇帝ナポレオンと「ローマ皇帝」の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:16 UTC 版)
「皇帝」の記事における「フランス皇帝ナポレオンと「ローマ皇帝」の消滅」の解説
フランスでは、フランス革命によって共和政が成立した後、1804年にナポレオン・ボナパルトが議会の議決と国民投票によって、「フランス人の皇帝ナポレオン1世」となった。「皇帝」号の採用は、革命によって廃された「国王」号の忌避の他に、古代ローマの皇帝が共和政下の市民によって推戴された点を踏まえたものといえる。このときに「西ローマ帝国の継承国家は神聖ローマ帝国である必要もなく、皇帝がドイツ人である必要性もないという当然の事実」が明らかになり、神聖ローマ帝国を支える帝国議会に代わりライン同盟が結成された。ナポレオンの皇帝即位を神聖ローマ皇帝フランツ2世は承認し、さらに自らは神聖ローマ皇帝位から退位し、神聖ローマ帝国を解散し、「オーストリア皇帝フランツ1世」を名乗った。ナポレオンはオーストリア皇帝を承認した。これはハプスブルク家が名乗る神聖ローマ皇帝位が単なる名誉称号と化していた事実の反映であるとともに、ハプスブルク家がハンガリーなど神聖ローマ帝国の領域外に支配領域を広げ、強固な「ハプスブルク帝国」を築き上げていた事実の反映でもあった。 ナポレオンのフランス皇帝即位とフランツ1世のオーストリア皇帝即位により、ヨーロッパに複数同時に存在することが受け入れられたことで、カール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。これにより、西ヨーロッパの伝統的な理念に基づく皇帝は消滅し、ナポレオンが没落した後も蘇ることはなかった。これと前後して、西欧からは単なるロシアの大公とみなされていたロシア皇帝も、西欧諸国からも正式に皇帝とみなされるようになったが、「東ローマ帝国の後継者」という元来の意味は忘れ去られた(ロシアの君主が皇帝を名乗る経緯は後述)。
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