フランス留学時代および帰国後
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「矢代秋雄」の記事における「フランス留学時代および帰国後」の解説
1951年8月、22歳で矢代は、第2回フランス政府給費留学生として、黛らと共にパリ国立高等音楽院に入学した。和声法をジャック・ドゥ・ラ・プレール、アンリ・シャランに、対位法とフーガをノエル・ギャロンに、作曲と管弦楽法をトニー・オーバンに、ピアノ伴奏法をナディア・ブーランジェにそれぞれ師事した。オリヴィエ・メシアンの作曲と管弦楽法の授業も時折聴講したという。当時の音楽院では、ドイツの古典の他にサン=サーンス、フランクなどの作品が範とされた。矢代は「フランクこそは自分の出発点」と後年の著書で述べているように、ちょうど彼の創作志向に合った学風だったといえる。対して、黛は「もう学ぶものはない」として1年で帰国している。また、この時期には同じくパリ音楽院に留学してきた三善晃と親交を深めている。卒業作品として「弦楽四重奏曲」を作曲(妹の訃報に接し、それを念頭に創作された)。1956年(27歳)8月に帰国。 帰国から約4か月後の12月14日、フランスで書かれた「弦楽四重奏曲」日本初演。また、この作品で毎日音楽賞の一等賞を受賞。1958年、日本フィルハーモニー交響楽団の委嘱により「交響曲」を作曲。1960年(30歳)、NHK交響楽団の委嘱により「チェロ協奏曲」を作曲。1965年(35歳)、「対位法」を出版。1968年(38歳)「ピアノ協奏曲」が第16回尾高賞・文部省芸術祭奨励賞を受賞。同年、東京藝術大学助教授に就任。1974年、東京藝術大学教授となる。そのほかにも、いくつかの高校の校歌も作曲しており、最後の校歌としては、三重県立名張桔梗丘高等学校の校歌を作っている。 ヴァイオリン協奏曲を作曲中の1976年、心不全により急逝。墓所は、神奈川県横浜市東神奈川にある浄土宗成仏寺の墓地にある。
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