フェニキア時代
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紀元前2千年紀の初期、フェニキア人が島に住み始めた。フェニキアの支配下でこの島は「アルヴァド」(Arvad)または「ジャズィラット」(Jazirat、「島」を意味する)という名の独立王国となる。またこの街は、君主よりは人民が主権者である国と記録されており、共和国のもっとも古い例の一つとされている。ギリシャ語では「アラド」(Άραδο)、「アラドス」(Άραδος)と呼ばれた。また古代の文書には「アルパド」や「アルファド」という名でも登場する。 アラドはフェニキアの強国のひとつとなり、北のバニヤース付近までの海岸の諸都市を植民地とした。また本土側にも町が築かれたが、この対岸の小さな町はアラドにちなみアンタラドゥス(ラテン語の Anti-Aradus、「アラドゥスの向かい側」)と呼ばれ、これがタルトゥースの語源になっている。フェニキア時代のアンタラドゥスはアラド支配下の小さな町に過ぎなかった。 後に街はセレウコス朝の支配下に置かれ、アンティオコス1世(前281年-前261年)により「アンティオケイア・ティス・ピエリアス」(ピエリアのアンティオキア、Αντιόχεια της Πιερίας)と改名された。アラド島はオロンテス川流域での商業活動の基地として重要であった。 旧約聖書にはこの島(アルワド)は二度言及されている。『エゼキエル書』では、預言者エゼキエルはフェニキアの都市ティルスのために嘆きの歌を歌うが、その前半のティルスの繁栄の部分に周囲の諸国とともにアルワドも登場する。 シドンとアルワドの住民はなんじの漕ぎ手となって なんじの優れた者たちが、ティルスよ、なんじの舵手となったThe inhabitants of Sidon and Arvad were thy rowers: thy wise men, O Tyre, were in thee, they were thy pilots. — 27章8節 アルワドの者たちがなんじの軍とともに、なんじの城壁の上にくまなく立ち、勇敢な者たちがなんじの塔にいた 彼らは盾をなんじの城壁の上にくまなく掛け それがなんじの美しさを完全にするThe men of Arvad with thine army, were upon thy walls round about, and valorous men were in thy towers; they hanged their shields upon thy walls round about; they have perfected thy beauty. — 27章11節
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フェニキア時代
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「古代レバノンの歴史」の記事における「フェニキア時代」の解説
現在、レバノンと呼ばれている地域が初めて歴史の表舞台に登場したのは、紀元前3000年ごろである。そのころのレバノンは、内陸部には鬱蒼とした森が茂り、海岸線には、一連の都市群が成立していた。セム系の民族で「フェニキア人」とギリシャ人から呼ばれた人々がこの地に居住していた。フェニキアの由来は、彼らが売っていた紫色(purple=phoinikies)の染料である。彼らフェニキア人は、自らのことを「シドンの人」と呼び、自らの国を「レバノン」と呼んでいた。この地域の自然とその位置のために、フェニキア人は、貿易と交渉に従事する場所を海(地中海)に求めた。 沿岸部にあった都市群は、それぞれがその住民の特別な行動で有名な独立した王国であった。ティルスとシドンは、海事上・通商上重要な拠点であった。また、Gubla(後にビュブロス、現在のジュバイル)やBerytus(現在のベイルート)は、貿易、宗教の中心地でも会った。Gublaは、古代エジプト(紀元前2686-2181年)と最初に通商を行ったフェニキアの都市であり、杉材、オリーブオイル、ワインを輸出し、金やその他の生産物をナイル川渓谷(すなわち、エジプト)から輸入していた。 紀元前17世紀の終わり、レバノンとエジプトの通商関係は、北方のセム系民族であるヒクソスがエジプトを征服したことによって、中断した。ヒクソスによる30年間と統治の後に、イアフメス1世(紀元前1570年-45年)によってエジプトの解放戦争が展開された。ヒクソスの統治に対して反発が強まるにつれ、エジプトのトトメス3世(紀元前1490-36年)がシリアに侵攻を実施し、ヒクソスの統治が終わり、レバノンはエジプトに編入された。 紀元前14世紀、エジプトが弱体化する中で、レバノンは、紀元前12世紀初頭には、独立を回復することができた。それからの3世紀は、コミュニケーションや貿易で利用された古代フェニキア人によるアルファベットの発明がなされた時代であり、繁栄と外国からの自由の時代でもあった。フェニキア人は、織物の生産に秀でていただけではなく、象牙彫刻、金属加工、とりわけ、ガラス製品の製造にも秀でていた。彼らは、地中海(特にキプロス、ロドス島、クレタ島、カルタゴ)に跋扈し、植民都市を建設、ヨーロッパと西アジアの交易路を確立した。その上、彼らの船は、ポルトガルによる世界一周の2000年前に、アフリカを周回していた。これらの植民都市と交易路は、アッシリアによる地中海沿岸地域への侵攻まで繁栄を極めた。
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