フェニキア時代とは? わかりやすく解説

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フェニキア時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 14:42 UTC 版)

アルワード島」の記事における「フェニキア時代」の解説

紀元前2千年紀初期フェニキア人が島に住み始めたフェニキア支配下でこの島は「アルヴァド」(Arvad)または「ジャズィラット」(Jazirat、「島」を意味するという名の独立王国となる。またこの街は、君主よりは人民主権者である国と記録されており、共和国のもっとも古い例の一つとされている。ギリシャ語では「アラド」(Άραδο)、「アラドス」(Άραδος)と呼ばれた。また古代文書には「アルパド」や「アルファド」という名でも登場するアラドフェニキア強国のひとつとなり、北のバニヤース付近までの海岸の諸都市植民地とした。また本土側にも町が築かれたが、この対岸小さな町アラドにちなみアンタラドゥス(ラテン語の Anti-Aradus、「アラドゥスの向かい側」)と呼ばれ、これがタルトゥース語源になっている。フェニキア時代のアンタラドゥスはアラド支配下小さな町に過ぎなかった。 後に街はセレウコス朝の支配下に置かれアンティオコス1世(前281年-前261年)により「アンティオケイア・ティス・ピエリアス」(ピエリアアンティオキア、Αντιόχεια της Πιερίας)と改名された。アラド島オロンテス川流域での商業活動基地として重要であった旧約聖書にはこの島(アルワド)は二度言及されている。『エゼキエル書』では、預言者エゼキエルフェニキア都市ティルスのために嘆きの歌を歌うが、その前半ティルス繁栄部分周囲諸国とともにアルワド登場するシドンアルワド住民はなんじの漕ぎ手となって なんじの優れた者たちが、ティルスよ、なんじの舵手となったThe inhabitants of Sidon and Arvad were thy rowers: thy wise men, O Tyre, were in thee, they were thy pilots. — 27章8節 アルワドの者たちがなんじの軍とともに、なんじの城壁の上くまなく立ち、勇敢な者たちがなんじの塔にいた 彼らは盾をなんじの城壁の上くまなく掛け それがなんじの美しさを完全にするThe men of Arvad with thine army, were upon thy walls round about, and valorous men were in thy towers; they hanged their shields upon thy walls round about; they have perfected thy beauty. — 2711

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フェニキア時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 16:00 UTC 版)

古代レバノンの歴史」の記事における「フェニキア時代」の解説

現在、レバノン呼ばれている地域初め歴史表舞台登場したのは、紀元前3000年ごろである。そのころのレバノンは、内陸部には鬱蒼とした茂り海岸線には、一連の都市群成立していた。セム系民族で「フェニキア人」とギリシャ人から呼ばれた人々がこの地に居住していた。フェニキア由来は、彼らが売っていた紫色(purple=phoinikies)の染料である。彼らフェニキア人は、自らのことを「シドンの人」と呼び、自らの国を「レバノン」と呼んでいた。この地域自然とその位置のために、フェニキア人は、貿易交渉従事する所を海(地中海)に求めた沿岸部にあった都市群は、それぞれがその住民特別な行動有名な独立した王国であったティルスシドンは、海事上・通上重要な拠点であったまた、Gubla(後にビュブロス現在のジュバイル)やBerytus(現在のベイルート)は、貿易宗教中心地でも会った。Gublaは、古代エジプト(紀元前2686-2181年)と最初に通商行ったフェニキア都市であり、材、オリーブオイルワイン輸出し、金やその他の生産物ナイル川渓谷(すなわち、エジプト)から輸入していた。 紀元前17世紀終わりレバノンエジプト通商関係は、北方セム系民族であるヒクソスエジプト征服したことによって、中断したヒクソスによる30年間と統治の後に、イアフメス1世(紀元前1570年-45年)によってエジプト解放戦争展開された。ヒクソス統治に対して反発が強まるにつれ、エジプトトトメス3世(紀元前1490-36年)がシリア侵攻実施しヒクソス統治終わりレバノンエジプト編入された。 紀元前14世紀エジプト弱体化する中で、レバノンは、紀元前12世紀初頭には、独立回復することができた。それからの3世紀は、コミュニケーション貿易利用され古代フェニキア人によるアルファベット発明なされた時代であり、繁栄外国からの自由の時代でもあった。フェニキア人は、織物生産秀でていただけではなく象牙彫刻、金属加工とりわけガラス製品製造にも秀でていた。彼らは、地中海(特にキプロスロドス島クレタ島カルタゴ)に跋扈し植民都市建設ヨーロッパ西アジア交易路確立した。その上、彼らの船は、ポルトガルによる世界一周2000年前に、アフリカ周回していた。これらの植民都市交易路は、アッシリアによる地中海沿岸地域への侵攻まで繁栄極めた

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