ファベルジェ工房と革命
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「ピーター・カール・ファベルジェ」の記事における「ファベルジェ工房と革命」の解説
ファベルジェ工房はインペリアル・イースター・エッグで有名だが、他にも銀食器からジュエリーまで、多岐にわたったオブジェを作製している。 ファベルジェの会社は従業員500人、ロシア最大の宝石商となった。サンクトペテルブルクに加え、モスクワ、オデッサ、キエフ、ロンドンに支店を持っていた。1882年から1917年の間に、15万から20万もの作品を制作している。 1900年には、ロシアを代表してパリ万国博覧会にも彼の作品が送られた。カール・ファベルジェは審判の1人だったため、作品は審査の対象から外れて展示されていた。にもかかわらずファベルジェ工房はグランプリを受賞し、パリの宝石商はカール・ファベルジェを maître と認めた。その上、カール・ファベルジェはフランスの賞で最も名声高い賞、すなわちレジオンドヌール勲章のシュバリエに叙せられた。カールの息子と職人頭の2人も受勲している。博覧会は商業的にも大成功を収め、同社は相当数の注文と顧客を得た。 1916年、ファベルジェ工房は300万ルーブルの資本を持つ株式会社となった。翌1917年に十月革命が勃発し、ビジネスは「K ファベルジェ会社の従業員委員会」に引き継がれた。1918年、ファベルジェ工房はボリシェヴィキにより国有化され、10月初めには株が没収された。ファベルジェ工房は消滅した。 会社が国営化された後、カール・ファベルジェはリガ行きの最後の外交列車に乗って、サンクトペテルブルクを離れた。11月中旬には革命がラトビアにも達し、彼はドイツに逃げ、最初はバート・ホンブルクに、次いでヴィースバーデンに居を定めた。ファベルジェの長子ウジェーヌ(Eugène)は、母とともに暗闇の中、そりや徒歩で雪に覆われた木々を抜けて旅をし、1918年12月にフィンランドに到着した。1920年6月にウジェーヌはヴィースバーデンに渡り、父とともにスイスのローザンヌに近いピュイー(英語版)に亡命する。ピュイーのベルヴューホテルには、一族が避難していた。 ピーター・カール・ファベルジェは、自分が愛された国に起こった惨事のショックから立ち直ることができなかった。亡命中、彼は「生きていても仕方ない」が口癖だった。 ファベルジェは1920年9月24日、スイスで死去した。彼は失意のために亡くなったと家族は考えた。彼の妻オーガスタは1925年に亡くなった。1929年にウジェーヌ・ファベルジェは、ローザンヌの父の遺灰を運んで、フランスカンヌのグラン・ジャス墓地にあった母の墓に埋葬し直して2人を合葬した。 ファベルジェには、ウジェーヌ(Eugéne, 1874年 - 1960年)、アガトン(Agathon, 1876年 - 1951年)、アレクサンデル(Alexander, 1877年 - 1952年)、ニコライ(Nicholas, 1884年 - 1939年)の4人の息子がいた。ピーター・カール・ファベルジェの直系の子孫は、ヨーロッパ、スカンジナヴィア、南アメリカに住んでいる。 ファベルジェの商標は、紆余曲折を経て現在はイギリスのジェムフィールズ(英語版)の一部門となり、宝飾品及び腕時計を販売している(2022年現在、日本に1店舗あり)。ファベルジェブランドの復興には、ピーター・カールの曾孫タチアナ・ファベルジェ(フランス語版)とサラ・ファベルジェ(英語版)が協力した。
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