パルテノペア共和国前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 06:45 UTC 版)
「ジュゼッペ・ポエリオ」の記事における「パルテノペア共和国前後」の解説
ジュゼッペ・ポエリオは1775年1月6日、ナポリ王国のベルカストロに生まれた。一家は貴族階級に属しており、父親はフリーメイソンの一員であった。 16歳の時には法学を学ぶため独りナポリに移り住んだ。そこで自由主義や立憲主義といった革命的思想に触れ、1799年1月にはカプアでフランス軍に加わった。そしてナポリ国王フェルディナンド1世が逃亡したのちは残存したナポリ軍に対し降伏を促し、パルテノペア共和国の建国宣言にも携わる。1月21日にはフランス軍とともにナポリに入城し、味方の軍人に対しナポリ市民への略奪や報復、暴力を控えるよう説得していた一人だったという。 その後はカラブリア南部に派遣されて山賊の影響力が強い当地で民主化のために尽力するが、その間に枢機卿ファブリツィオ・ルッフォ(イタリア語版)がカラブリアの主要都市を掌握してフェルディナンド1世を呼び戻す。それを知ったポエリオは急遽ナポリに戻って防衛に参加するとともにファブリツィオ・ルッフォ(イタリア語版)と交渉するが失敗。パルテノペア共和国は崩壊し、ポエリオは死刑判決を受けた(後に王によって終身刑に減刑)。 第二次対仏大同盟はフランスの勝利で終わり、1801年にはフィレンツェ条約 (1801)(イタリア語版)が結ばれた。その結果、ポエリオには恩赦が出されて釈放される。1806年にはナポレオン・ボナパルトがナポリに凱旋するが、その時もナポレオンを支持したためカピタナカ(イタリア語版)州およびモリーゼ州の監督を任された。強引な手腕からその職は翌年には解任されるものの、以降も政府要人として活躍し、イタリア人の独立性を宣言した1815年のジョアシャン・ミュラの「リミニ宣言(イタリア語版)」の起草者の一人であった。
※この「パルテノペア共和国前後」の解説は、「ジュゼッペ・ポエリオ」の解説の一部です。
「パルテノペア共和国前後」を含む「ジュゼッペ・ポエリオ」の記事については、「ジュゼッペ・ポエリオ」の概要を参照ください。
パルテノペア共和国前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 08:49 UTC 版)
「カロリーナ・ポエリオ」の記事における「パルテノペア共和国前後」の解説
1775年、レッチェ県ポッジャルドの地方判事を務めていた父ニッコロ・ソッシセルジョ(イタリア語: Niccolò Sossisergio)とかつてレオポルド1世の家庭教師をしていた母カルロッタ・トロンポール(イタリア語: Carlotta Trompaur)の間に生まれた。父親が早くに亡くなったのちは叔父を頼り母親と姉妹とともにナポリ王国の首都ナポリに移り住んで、青年であったジュゼッペ・ポエリオに出会った。二人は文学作品を通じて親しくなり、この頃から交際を始めた。 1799年には恋人のジュゼッペ・ポエリオがフランス軍に入隊しパルテノペア共和国の建国に携わる。カロリーナはこれには直接関係しなかったがポエリオを支えた。枢機卿ファブリツィオ・ルッフォ(イタリア語版)がカラブリアの実権を握ってフェルディナンド1世を呼び戻し、パルテノペア共和国を打倒して旧来の王政を取り戻そうと画策すると、カロリーナは革命側に寝返ったポエリオの恋人ということで重要人物として警戒され、実際にルッフォ率いる軍隊がパルテノペア共和国に侵攻した際にはカロリーナが住む家にまで軍隊が押しかけている。その際カロリーナはアンシャンレジームを厳守することを誓って、軍隊の略奪から家を守った。 しかしこれだけではカロリーナやその母親、姉妹たちの安全は決して十分に保障されたとは言えなかったため、修道院に入ることで難を逃れた。その間、恋人のジュゼッペ・ポエリオは投獄され死刑判決を受けていた(後に終身刑に減刑)。1800年には恩赦が出されたことでカロリーナたちソッシセルジョ一家は修道院を離れ、1801年には終身刑を受け服役していた恋人ポエリオがフィレンツェ条約 (1801)(イタリア語版)に基づき釈放される。その後二人は再会し婚約。1802年にはアレッサンドロ・ポエリオ(イタリア語版)、1803年にはカルロ・ポエリオ(イタリア語版)、1807年にはカルロッタ・ポエリオを授かり、またジョアッキーノ1世としてナポリ国王に君臨したジョアシャン・ミュラの治世下では夫ポエリオは高い役職に就いていた。しかし1814年、イタリア南部やシチリア島においてブルボン家が支配を取り戻すと亡命を余儀なくされ、フィレンツェ、グラーツ、トリエステなどを転々とした。一時夫や家族とは生き別れていたが(夫ポエリオは最初、子供を連れてパリへと亡命した)、フィレンツェでは再会を果たしている。
※この「パルテノペア共和国前後」の解説は、「カロリーナ・ポエリオ」の解説の一部です。
「パルテノペア共和国前後」を含む「カロリーナ・ポエリオ」の記事については、「カロリーナ・ポエリオ」の概要を参照ください。
- パルテノペア共和国前後のページへのリンク