パキスタン建国
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「ムハンマド・アリー・ジンナー」の記事における「パキスタン建国」の解説
1945年6月、インド総督ウェーヴェル伯爵は、夏の首都シムラーに、ガンディー、ジンナー、そして、その他の会議派のリーダーを招集した。ウェーヴェルは、インド総督と最高司令官を除いた、全員がインド人によって構成される行政参事会を創設し、これを暫定政府として機能させるという打開案を提示した。参事会は、同じ人数のヒンドゥー及びムスリムによって構成されるというムスリム側の要求が認められた内容であった。しかし、ジンナーは、自らがインド側のムスリムの代表であると考えており、参事会のメンバーは連盟によって指名されるべきであると主張をしたため、この会談は決裂した。 第二次世界大戦終結後の1945年から1946年にかけて、インドで総選挙が実施された。この選挙は、ムスリム連盟とインド国民会議派の一騎討ちの様相を呈した。中央議会選挙において国民会議派は非ムスリム割り当て枠の90%を確保、同時に8つの州で政権を握った。一方、ムスリム連盟も中央議会におけるムスリム割り当て枠30全てを独占し、地方議会のムスリム割り当て枠500のうち442議席を獲得した。ムスリム連盟が選挙で圧勝したのは、ベンガルやパンジャーブ州の地方政党の地盤を切り崩すことに成功したからである。1946年3月、イギリスは、ムスリムとヒンドゥーの対立を収拾する閣僚使節団を任命して、3層構造の連邦案を提示した。この連邦案に基づくと、州のグループ分けを実施し、ムスリムが多数派を占める東・西の地域とヒンドゥーが多数派を占める中央部・南部とグループ分けを行い、防衛・外交・交通・通信を統括する連邦政府のもとに位置づけた。また、その各グループには大きな自治権を付与することとした。イギリスが提示した連邦案は、国民会議派・ムスリム連盟の主張を同時に満たそうとするものであり、ジンナーはこの連邦案を了承した。一方、ネルー率いる国民会議派は、イギリスの連邦案はインドの一体性は保たれるものの中央政府の権限があまりにも貧弱であることを危惧した。実業界も将来のインドは強い中央政府による指導の下、貧困のない工業国にしなければいけないと考えていた。7月10日のネルー演説により、各州がどのグループに加わるかは自由に判断すべきと宣言したことにより、統一インドの芽が絶たれることとなった。 ジンナーの立場は窮地に陥った。ここでジンナーは8月16日、後にカルカッタの大虐殺の名前でも知られる直接行動(en)を訴えた。ジンナーは、直接行動の日において、ムスリム側は、「どんな様式、形態においても直接的な暴力行為に訴えるための日であってはならない」と考えていたが、実際には、暴動が発生した5日間で4000人以上のヒンドゥーとムスリムが死亡し、数千人が負傷した。また、ビハール州では7000人のムスリムが殺害される一方、ベンガルのノアカリ地域でも数千人のヒンドゥーが殺害されるという事態になった。このことにより、立憲主義者であり続けたジンナーの苦悩は募ることとなり、国民会議派はジンナーに対しての期待を一切捨て去ることとなった。 国民会議派は、ムスリムが政権を握る各州で攻勢を強め、パンジャーブ州と北西辺境州で政権を掌握していた。ジンナーは、シンド州とベンガル州におけるムスリム連盟の基盤強化に努めることとなった。シンド人とパンジャーブ人との間では、相克関係があったが、州分権主義と引き換えに、強力な連盟政権が成立した。暴動が治まらないベンガルで、事態を収集する方法は宗教を横断する形での連立政権であったが、国民会議派との連立はジンナーが認めるものではなかった。 1946年10月25日、中間政府の設立が宣告された 。この中間政府とはイギリスからインドをどのような形で独立するかを議論するために設立された政府であるが、国民会議派が多数派を占めていた。翌26日、連盟も中間政府の参加を決めた。とはいえ、連盟の中間政府参加は、ジンナーが望むような形で実現されたとはいえなかった。というのも、国民会議派との対等の立場はなく、ムスリムの代表権を連盟が独占しているわけでもなく、ムスリムに関する諸問題に対しての拒否権を有しているわけでもなかった。 国民会議派主導による憲法制定会議の議事開始が12月9日に始まるなか、ジンナーは一貫して前述のグループ分け問題の決定が優先されることを望んでいた。インド総督ウェーヴェルは、ジンナーの態度を「譲歩する前にとるいつもの極端な態度」と考えていた。中間政府のヒンドゥーとムスリムの協力体制はついに実を結ぶ事はなく、1946年末には、パンジャーブ州の西部、東ベンガル州、バローチスターン、シンドの分割が検討され始めた。パンジャーブ州の分割の決定は、1947年3月8日になされた。国民会議派が多数を占めていた北西辺境州の帰属をめぐっては7月に選挙が実施され、パキスタンへの帰属が決まった。
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