パキスタン建国とは? わかりやすく解説

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パキスタン建国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:13 UTC 版)

ムハンマド・アリー・ジンナー」の記事における「パキスタン建国」の解説

1945年6月インド総督ウェーヴェル伯爵は、夏の首都シムラーに、ガンディージンナー、そして、その他の会議派のリーダー招集した。ウェーヴェルは、インド総督最高司令官除いた全員インド人によって構成される行政参事会創設し、これを暫定政府として機能させるという打開案を提示した参事会は、同じ人数ヒンドゥー及びムスリムによって構成されるというムスリム側の要求認められ内容であった。しかし、ジンナーは、自らがインド側のムスリムの代表であると考えており、参事会メンバー連盟によって指名されるべきであると主張したため、この会談決裂した第二次世界大戦終結後1945年から1946年にかけて、インド総選挙実施された。この選挙は、ムスリム連盟インド国民会議派一騎討ち様相呈した中央議会選挙において国民会議派は非ムスリム割り当て90%を確保同時に8つの州で政権握った一方ムスリム連盟中央議会におけるムスリム割り当て30全て独占し地方議会ムスリム割り当て500のうち442議席獲得したムスリム連盟選挙圧勝したのは、ベンガルパンジャーブ州地方政党地盤切り崩すことに成功したからである。1946年3月イギリスは、ムスリムヒンドゥー対立収拾する閣僚使節団任命して3層構造連邦案を提示した。この連邦案に基づくと、州のグループ分け実施しムスリム多数派占め東・西地域ヒンドゥー多数派占め中央部南部グループ分け行い防衛・外交交通・通信統括する連邦政府のもとに位置づけた。また、その各グループには大きな自治権付与することとした。イギリス提示した連邦案は、国民会議派ムスリム連盟主張同時に満たそうとするものであり、ジンナーはこの連邦案を了承した一方ネルー率い国民会議派は、イギリス連邦案はインド一体性保たれるものの中央政府権限あまりにも貧弱であることを危惧した実業界将来インドは強い中央政府による指導の下、貧困のない工業国にしなければいけないと考えていた。7月10日ネルー演説により、各州がどのグループに加わるかは自由に判断すべきと宣言したことにより、統一インド絶たれることとなったジンナー立場窮地陥った。ここでジンナー8月16日、後にカルカッタ大虐殺の名前でも知られる直接行動en)を訴えたジンナーは、直接行動の日において、ムスリム側は、「どんな様式形態においても直接的な暴力行為訴えるための日であってならない」と考えていたが、実際には、暴動発生した5日間で4000人以上のヒンドゥームスリム死亡し数千人が負傷したまた、ビハール州では7000人のムスリム殺害される一方ベンガルのノアカリ地域でも数千人のヒンドゥー殺害されるという事になった。このことにより、立憲主義者であり続けたジンナー苦悩募ることとなり、国民会議派ジンナーに対して期待一切捨て去ることとなった国民会議派は、ムスリム政権を握る各州攻勢強めパンジャーブ州北西辺境州政権掌握していた。ジンナーは、シンド州ベンガル州におけるムスリム連盟基盤強化努めることとなったシンド人パンジャーブ人との間では、相克関係があったが、州分権主義引き換えに、強力な連盟政権成立した暴動治まらないベンガルで、事態収集する方法宗教横断する形での連立政権であったが、国民会議派との連立ジンナー認めるものではなかった。 1946年10月25日中間政府設立宣告された 。この中政府とはイギリスからインドどのような形で独立するかを議論するために設立され政府であるが、国民会議派多数派占めていた。翌26日連盟中間政府参加決めたとはいえ連盟中間政府参加は、ジンナーが望むような形で実現されとはいえなかった。というのも国民会議派との対等立場はなく、ムスリム代表権連盟独占しているわけでもなく、ムスリムに関する諸問題に対して拒否権有しているわけでもなかった。 国民会議派主導による憲法制定会議議事開始12月9日に始まるなか、ジンナー一貫して前述グループ分け問題決定優先されることを望んでいた。インド総督ウェーヴェルは、ジンナー態度を「譲歩する前にとるいつもの極端な態度」と考えていた。中間政府ヒンドゥームスリム協力体制はついに実を結ぶ事はなく、1946年末には、パンジャーブ州西部東ベンガル州バローチスターンシンド分割検討され始めたパンジャーブ州分割決定は、1947年3月8日なされた国民会議派多数占めていた北西辺境州帰属めぐって7月選挙実施されパキスタンへの帰属決まった

※この「パキスタン建国」の解説は、「ムハンマド・アリー・ジンナー」の解説の一部です。
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