パキスタン移住後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 10:04 UTC 版)
「ハディージャ・マストゥール」の記事における「パキスタン移住後」の解説
インド・パキスタン分離独立(1947年)の影響で、1948年9月からパキスタンのラホールで家族と共に避難民用の住宅に移住し、この時期から作家としての活動を始める。パキスタンでは1948年に文芸誌の『ヌクーシュ(印象)』が創刊され、マストゥールの作品はそうした雑誌に掲載された。『ヌクーシュ』の創刊には、作家のアフマド・ナディーム・カースミーや、マストゥールの妹で作家のハジラ・マスルール(英語版)も関わっていた。マストゥールは1950年にパキスタン進歩主義作家協会のラホール支部の書記に選出された。しかし、協会はパキスタン政府による1951年以降の共産党弾圧の影響もあって活動が縮小してゆき、マストゥールが書いた議事録は当局に監視された。 マストゥールは民主主義女性協会に属しながら創作を続けた。分離独立後の問題である家族との別離、避難民の生活苦、避難民を受け入れる側の無理解などは作風にも影響を与えた。短篇小説5冊と長篇小説2冊を発表し、長篇『中庭(英語版)』(1962年)は、アーダム・ジー文学賞(英語版)を受賞した。1982年に病気を治療するためにイギリスへ渡り、ロンドンの病院で7月26日に死去した。
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