ハクキンカイロの歴史
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「ハクキンカイロ (企業)」の記事における「ハクキンカイロの歴史」の解説
大正末期、創業者の的場仁市がイギリスのプラチナ触媒式ライターを参考に、プラチナの触媒作用を利用して気化したベンジンをゆっくりと酸化発熱させる懐炉を独自に発明し、1923年(大正12年)に「ハクキンカイロ(白金懐炉)」の商品名で発売した。ジッポーライターの登場(1932年)より9年先駆けた登場で、富裕層向けのカイロ(当時の庶民は桐灰カイロが主流であった)や、北支・満州など寒冷地帯に駐留する兵士の慰問品、南極観測隊の常備品などとして広くその名が知られた。 ハクキンカイロの発熱作用は燃焼とは異なる為、原理上は揮発油を用いる内燃機関の予熱にも利用ができる。実際に戦前に満州に駐留する日本陸軍が使用していた国産軍用トラックは、零下30度にも達する冬の朝はオイルパンの下に練炭コンロを置き、キャブレターにハクキンカイロを括り付けてエンジンの予熱を行う必要があった。一方で、同時期のフォードやシボレーのトラックはそのような作業を行わなくても始動が出来たともいわれる。このような背景もあり、第二次世界大戦中ハクキンカイロ社は戦闘機のエンジンの予熱機材、つまりは特大のハクキンカイロの製造にも注力した。 水冷エンジンの冷却水経路を電熱器で予熱するブロックヒーター(英語版)がカナダで発明されるのは1940年(昭和15年)、一般に市販されるようになるのは1949年(昭和29年)になってからであり、このような電気製品の登場までは、カナダでは空冷の星型エンジンを極寒の環境で始動する為には、着陸後に毎度エンジンオイルをブローポットと呼ばれる灯油コンロ付きのバケツに抜いてエンジン始動前に加熱する必要があり、自動車(フォード・モデルA (1927-31年)(英語版))でもオイルを抜いて夜間は暖炉の利いた室内へ保管する、始動前には暖炉の焼けた石炭をエンジンの下に敷く、インテークマニホールドに熱湯を掛けるなどの作業が必須という状況で、極寒の地域ではどこもエンジンの冷間始動対策には苦慮していた中で、ハクキンカイロは冬季装備の軍需品としての価値を認められていたのである。 そのため物資統制下で、ハクキンカイロは「国民の健康維持に不可欠な保健用品」として当局より製造継続を許可され、本体材質を真鍮からステンレスに切り替え、敗戦直前の大阪大空襲による工場全焼まで製造された。戦中の真鍮供出に伴う材質変更(戦中モデルの存在)や、90年以上の間基本構造がほぼ不変で現在に至るなど、後にOEM生産で提携するジッポーとも共通点が多い。 戦後は1950年代より国外輸出も開始。1964年(昭和39年)には第18回夏季オリンピック東京大会の聖火リレーにて、聖火のトーチの炎が消えた場合のバックアップとして、特製のハクキンカイロが用意されていた。この他に、1985年夏季ユニバーシアード(神戸大会)・1998年長野オリンピックでも聖火の輸送で使用されている。 なお、ハクキンカイロの原理を応用した製品は、現在では火災報知器の動作確認用機材がある。
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