ネミ湖のローマ船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 04:08 UTC 版)
詳細は「ネミ湖のローマ船(英語版)」を参照 皇帝カリグラが造船させた二隻の豪華船は女神ディアーナにささげるためネミ湖に沈められたと言われている。この沈没船の話は古くから知られており、地元の漁師はその沈没船から色々な物を引き揚げ観光客に販売していた。 1446年、枢機卿のプロスペロ・コロンナ(英語版)らは伝説を確かめるために調査を行い、沈没船が深さ18.3メートルの底に横たわっているの発見し、鉛に覆われた木片を引き上げたが同時にこの作業が船に大きな被害をもたらした。 1535年、フランチェスコ・デ・マルキ(イタリア語版)は潜水鐘を使用して沈没船の所まで潜り多くの大理石敷石、青銅、銅や鉛の工芸品を引き上げた。それら学問的な調査を行わないまま、全て貴族や外国人観光客に販売してしまい、それらは行方不明となってしまった。その後沈没船に対する関心は薄れてしまった。 しかし1827年にスエトニウスが、マルキらが引き上げた品々がディアーナ神殿か、またはカエサルの別荘であると唱えると関心が復活し、アネシオ・フスコーニが浮遊式作業台を使って沈没船にケーブルを掛け引き上げるようとしたがケーブルが切れて失敗した。 1895年エリセオ・ボルギヒは、文部科学省の支援を受けて、沈没現場の系統的な研究を開始し、沈没船が二隻である事を発見した。彼が引き上げた物の中には青銅製の船の舵棒があり、他にも青銅製の動物の頭が多くあった。しかし引き上げた材木類は調査されないまま破棄された。 その後、イタリア海軍の技術者が2隻の沈没船を発掘する唯一の現実的な方法は湖の水を部分的に排水する事であると報告すると、1927年に独裁者ベニート・ムッソリーニはグイド・ウセリに湖の排水を命じた。そこで彼は火口にある湖から火口外の農場に水を引くために作られた古代ローマの地下水導管を修理し1928年10月20日から排水を開始した。この工事で1931年6月10日までに4000万トンの水を排水し、湖面が20m以上低下すると二隻の船が水中から姿を現した(写真)。その後、湖底から泥が噴出するなどの困難があったが、1932年10月には発掘は終了した。発掘された一隻目は長さ70m、幅20m、二隻目はこれより少し大きく長さ73m、幅24mであった。また長さ10mの小さな船も発見されている。更に重さが300kgを超える大きな鉄製錨も発掘されたが、これは、現存する最古の鉄製錨で現在ローマ文明博物館に保管されている。 1936年1月には発掘された二隻の船を引き上げたあと、それらの船を格納するためローマ船博物館が建設された (北緯41度43分20秒 東経12度42分07秒 / 北緯41.72222度 東経12.70194度 / 41.72222; 12.70194)。しかし第二次世界大戦末期の1944年5月31日、カステッリ・ロマーニ地方を通過して北に退却するドイツ軍と進軍する連合軍との戦火に巻き込まれ2隻の船は博物館と共に焼失した。現在の博物館は1953年に復元・再開されたものである。 尚、この2隻の船の年代については発掘された鉛管に皇帝カリグラ(在位:37年 - 41年)の銘が入っていたことから、カリグラの時代の物と考えられているが(東京日日新聞 1914.11.10~18、船史譚 太古時代の船舶、穉林生)、その前帝ティベリウス(在位:14年〜37年)の時代であるとの説もある。
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