ネイティブ・アメリカンの時代
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「ヨセミテ国立公園」の記事における「ネイティブ・アメリカンの時代」の解説
この地域には、白人が入植するはるか昔、パイユート族とシエラ・ミウォク族の人々が住んでいた。白人が入った時、ヨセミテ渓谷に住んでいたのはアワニチ族と呼ばれるネイティブ・アメリカンであった。 アワニチ族は、パイユート族などいくつかの部族から出奔した者が集まった部族で、テナヤ酋長が率いていた。彼らは、この土地を「大きな口」という意味の「アワニー (Ahwahnee)」と呼び、自らをアワニーに住む人々という意味でアワニチ (Ah-wah-ne-chee) と呼んでいた。一方、彼らは、これと対立関係にある穏やかなミウォク族からは、恐れを込めて、「殺し屋たち」という意味のYohhe'metiと呼ばれていた。 白人としてヨセミテ渓谷を発見したのは、アメリカ陸軍ジム・サヴェジ少佐が率いるマリポサ歩兵大隊であり、1851年のことであった。19世紀半ばのカリフォルニア・ゴールドラッシュによって、カリフォルニアに流入する白人の数が激増する中、同大隊は、マリポサ戦争と呼ばれる戦いの中、約200人のアワニチ族を追って、ヨセミテ渓谷の西端まで来た。 この地を「ヨセミテ」と名付けたのは、サヴェジ少佐の部隊に従軍していた医師ラファイエット・バンネルであるとされる。バンネルは、アワニチの人々がこの土地を指していた「アワニー」という名前ではなく、この人々に対するミウォク族からの呼び名であり、よりアメリカ的であると感じられた「ヨセミテ (Yo-sem-i-ty)」という名称を採用することにした。前述のとおり、これは「殺し屋たち」という意味のミウォク語 (Yohhe'meti) であるが、バンネルやサヴェジ少佐は、発音が似ている、グリズリーベアを指すミウォク語 (ïhümat.i or ïsümat.i) と勘違いをしていた。 なお、テナヤ酋長とアワニチの残党は、結局捕らえられ、その村は焼かれてしまった。そしてカリフォルニア州フレズノのインディアン居留地に移転させられた。一部は後にヨセミテ渓谷に戻ることを許されたが、1852年春に鉱夫8人を襲う事件を起こした。彼らは東方のモノ湖へ逃げ、近くのモノ族にかくまってもらった。しかし、モノ族から馬を盗んだことで探し出され、1853年モノのパイユート族に殺された。テナヤ酋長は殺され、生き残った者はモノ湖に連れ戻され、モノ湖のパイユート族に同化してしまった。アワニーのインディアン村は、現在、ヨセミテ渓谷ビジター・センター隣のヨセミテ博物館の裏手に再現されている。
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ネイティブアメリカンの時代
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「カリフォルニア州の歴史」の記事における「ネイティブアメリカンの時代」の解説
一般に認められている南北アメリカ大陸への人類の移動に関する学説は、およそ16,500年前にネイティブアメリカン民族がベーリング陸橋を通ってアメリカ大陸に入ったというもので、ネイティブアメリカンが、現在のカリフォルニアにいつ到着したかは不明である。 サンタローザ島のアーリントン・スプリングス人の遺跡は、最も初期にネイティブアメリカンが住んだ跡であり、約13,000年前のウィスコンシン氷期(最も新しい氷期)の頃とされている。現在のカリフォルニアになった地域には全体で約30の部族あるいは文化集団が住んでおり、恐らくは6種の言語族に分類される。これらの語族の中には最も初期に到着したホカ語族(はるか北の山岳地から南のコロラド川盆地に分布)と最近に到着した南東部砂漠地帯のユト・アステカン語族がいる。この文化の多様性は北アメリカの中でも密度が濃く、10,000年から15,000年前の一連の移民や勢力争いの結果と考えられている。ヨーロッパ白人による最初の接触時、チュマシュ族、マイドゥ族、ミウォク族、モードック族、モハーベ族、オーロネ族、ポモ族、シャスタ族、トングヴァ族およびウィントゥ族など、60を超えるネイティブアメリカン部族が住んでいた。 これらの部族はカリフォルニアの多様な気候に適応した。海岸の部族は、石器を使ってイガイ科貝類の殻から作られる交易用ビーズの主要生産源だった。カリフォルニアの広いセントラル・バレーやそれを取り囲む丘の部族は、早くから農業を発展させ、草地を焼いて食用植物、特にオークの木の生育を促進した。これらの木の実(ドングリ)を粉に挽き、酸性のタンニンを濾過すると食用の粉ができた。北部や東部の山岳地に住む部族はサケ漁や動物の猟に大きく頼っており、カリフォルニアの火山生成物である黒曜石を集めて成形し交易に用いた。南東部の砂漠は、過酷な環境で生き残る術を覚えた部族が住み、その土地の植物を慎重に扱い、オアシスや水源の近くで生活した。 これら全ての部族の状態は動的であり、より成功した部族がその領土を拡げ、あまり成功しなかった部族は縮小した。奴隷貿易や部族間の戦争が比較的平和な期間と交互に続いた。ヨーロッパ人による接触が広範になった1700年代には、およそ30万人のネイティブアメリカンがカリフォルニアに住んでいたと推計されている。(→カリフォルニアのネイティブアメリカン部族)
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