ナショナル・アライアンス
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「ウィリアム・ルーサー・ピアース」の記事における「ナショナル・アライアンス」の解説
詳細は「ナショナル・アライアンス(英語版)」を参照 1974年、正式にナショナル・アライアンスが設立された。ピアースはこの組織を、来るべき白人至上主義によるアメリカ合衆国連邦政府転覆に向けた政治的前衛組織と位置づけていた。以後、ピアースは死ぬまでウェストバージニア州に暮らした。彼は毎週ラジオ番組『アメリカ反体制派の声』(American Dissident Voices)を放送していたほか、ナショナル・アライアンスの党内紙や機関誌の発行に携わり、さらに自前の出版社ナショナル・ヴァンガード(英語版)やレコード会社レジスタンス・レコード(英語版)を設立し、運動に関する様々な書籍・レコードを作成・出版・販売していた。 1978年、ピアースはナショナル・アライアンスが教育組織であると主張し、内国歳入庁に免税申請を行ったものの拒否された。ピアースはこれに対して訴えを起こしているものの、裁判では内国歳入庁の判断が支持された。また同時期、彼はパブリック・アクセスのケーブルテレビのトーク番組『Race and Reason』のハーバード・ポインセット(Herbert Poinsett)により取材を受けている。 ナショナル・アライアンスは反シオニズム的活動も行っており、第四次中東戦争勃発時にはマクドネル・ダグラス社によるイスラエルへの軍需品輸出を阻止するべく、同社の株式を大量に買い占めて株主総会の中で訴えを起こそうと試みた。しかし同社は訴えを受け入れず、イスラエルへの輸出を続けた。その後ピアースが『アメリカ反体制派の声』で放送した中東戦争に関するスピーチの一部は、ヒズボラのウェブサイトなど、いくつかのイスラム派の出版物・ウェブサイトに転載された。 1985年、ピアースはウェストバージニア州ミルポイントにある346-エーカー (1.40 km2)の土地を購入して政治的活動および事業の拠点をそこに移した。この際、彼は代金95,000ドルを現金で支払った。ここで彼はコスモジスト・コミュニティ教会(Cosmotheist Community Church)なる団体を設立するが、これは税金対策の為の行動であったとも言われている。1986年には再び免税申請を行ったところ認められ、連邦政府、州、地域のいずれに対する税金も免除された。しかし同年中の再審査において、敷地のうちナショナル・アライアンス本部、ナショナル・ヴァンガード社事務所および倉庫などとして使用していた286エーカー (1.16 km2)については宗教的目的によらない使用と見なされて州税の免税を取り消された。 1990年、ジェイコブ・ヤング(英語版)が製作したドキュメンタリー・シリーズ『Different Drummer』にてピアースが取り上げられ、公共放送サービス(PBS)で放送された。その後、バージニア州リッチモンドにてロン・ダゲッドが司会を務めるパブリック・アクセスのケーブルテレビの番組『Race and Reality』に出演した。1996年5月19日、ピアースはCBSのドキュメンタリー番組『60 Minutes』に出演する。彼がこのような大手メディアの番組に出演する事は非常に稀であった。番組の中で1995年4月19日に発生したオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件を容認するか否かと尋ねられたピアースは次のように答えた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}否、否、認めるものか。以前から繰り返し話していることだが、アメリカは目下のところ革命情勢に突入していないのであり、よって私がオクラホマシティの事件を容認する事はありえないのだ。No. No, I don't. I've said that over and over again, that I do not approve of the Oklahoma City bombing because the United States is not yet in a revolutionary situation. —ウィリアム・ピアース 1998年、アメリカにおける白人至上主義を取り上げたディスカバリーチャンネルの番組で取材を受けた。ナショナル・アライアンスの指導者として、ピアースは欧州各国の国家主義的グループとの連携を確立した。接触したグループには、ドイツ国家民主党やギリシャの「黄金の夜明け」党などが含まれる。日本の国家社会主義日本労働者党も接触しており、1999年末には同党の来日講演依頼を承諾したものの多忙と健康状態悪化から実現しなかったという。また、ピアースは『変わりゆく国、アメリカ』(America is a Changing Country)と題した51分のビデオを作成している。このビデオの主題は反グローバリゼーションであり、彼は反グローバリゼーション行動ネットワーク(Anti-Globalization Action Network)なる組織を立ち上げ、2002年6月にカナダで開催が予定されていたG8サミットに対する抗議を行った。 2002年、ピアースはガンにより急死した。当時、ナショナル・アライアンスは年あたり100万ドル以上の収益を生み出し、1500人以上の党員と17人の常勤職員を有していたが、以後は内部抗争により衰退していく。しかし、著書や演説ビデオなど彼の著作物については依然として一定の人気がある。最後の演説は2002年4月28日にオハイオ州クリーブランドで行われたものだった。 彼の死後、英国国民党は追悼記事を寄せた。
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