ドレゲネ称制期とは? わかりやすく解説

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ドレゲネ称制期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:16 UTC 版)

ファーティマ・ハトゥン」の記事における「ドレゲネ称制期」の解説

1241年にオゴデイ・カアンが崩御したとき、モンゴル帝国慣例では正皇后次期皇帝選出まで国政取り仕切るになっていたが、第一皇后のボラクチン・ハトゥンは既に亡く第二皇后のモゲ・ハトゥンもオゴデイ後を追うように亡くなったことから、第六皇后に過ぎなかったドレゲネ次期皇帝選出まで国政握ることになった中国史上の文脈ではこの期間を「六皇后/ドレゲネ称制期」と呼ぶ)。『集史』「グユク・カン紀」によるとドレゲネ当初オゴデイ・カアン期のまま大臣総督地位留めたが、チンカイ初めとする一部大臣にはかつて憤慨するような対応を受けたことから報復企んでいた。この時、ドレゲネ助けたのがファーティマであり、ファーティマ助言によってチンカイらオゴデイ・カアン期の高官たちの多く地位失ったという。 また、同じく集史』「グユク・カン紀」によるとファーティマヒタイ地方(旧金朝華北モンゴル語呼称)の総督マフムード・ヤラワチに対して以前から敵意抱いており、ヤラワチ罷免して代わりにアブドゥッラフマーンヒタイ漢地総督後任として指名した。この時期ヤラワチ失脚してアブドゥッラフマーン台頭したことは漢文史料の側にも記録されている。ファーティマは更にオカル・コルチ(Oqal qorči>ūqāl qūrchī/اوقال قورچی)なる人物使者イルチ)として派遣しヤラワチとその家臣捕らえようとしたが、ヤラワチ敢えて堂々と使者迎えて宴を催し、宴の裏逃亡準備行い3日目使者の目をかいくぐって逃れることに成功したチンカイヤラワチら、ドレゲネファーティマによってそれまで地位を逐われた高官達の多くオゴデイ息子一人四川チベット方面侵攻担当していたコデンの下に逃れたヤラワチ取り逃したオカル・コルチはコデンの下を訪れヤラワチ身柄引き渡すよう要求したコデンはこれを拒否して次代皇帝カアン)を決めクリルタイ彼等連れて行き一族高官たちの立ち会いの下彼等の罪を明らかにする答えたこのような状勢知ったヤラワチ息子トルキスタン総督府仕えマスウード・ベク同様にジョチ・ウルスバトゥの下に逃れたまた、同時期にイラン総督府の総督クルクズチャガタイ・ウルスとの確執が元で審理受けたが、政敵であるシャラフ・ウッディーンがファーティマ取り入ったために失脚処刑されたと記されており、モンゴル帝国三大属領ヒタイ/漢地トルキスタンイラン全ての高官ドレゲネ及びファーティマ報復人事影響を受けることになった

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ドレゲネ称制期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 02:16 UTC 版)

アブドゥッラフマーン (モンゴル帝国)」の記事における「ドレゲネ称制期」の解説

1241年太宗13年/辛丑10月漢地にはそれまで中央アジア方面治めていたマフムード・ヤラワチが「イェケ・ジャルグチ(大断事官)」として赴任した同年11月、『元史太宗本紀によるとオゴデイ・カアンは狩猟出た先でアブドゥッラフマーン勧めた酒を夜通し飲み、夜が明けたところで急速に体調崩し亡くなったという。モンゴル帝国慣例では皇帝死後皇后次期皇帝選出まで国政取り仕切るになっていたが、第一皇后のボラクチン・ハトゥンは既に亡く第二皇后のモゲ・ハトゥンもオゴデイ後を追うように亡くなったことから、第六皇后に過ぎなかったドレゲネ次期皇帝選出まで監国として国政握ることになった中国史上の文脈ではこの期間を「六皇后/ドレゲネ称制期」と呼ぶ)。 ペルシア語史料の『集史』「グユク・カン紀」には、ドレゲネ皇后とその侍従長であるファーティマ・ハトゥン権勢を握ると個人的な復讐心からチンカイクルクズヤラワチオゴデイ時代高官達を次々と罷免したと記されるとりわけ漢地総督マフムード・ヤラワチ過去遺恨からファーティマ・ハトゥンの命によって地位を逐われ、その後釜としてファーティマ・ハトゥン推挙したのがアブドゥッラフマーンであったとされる一方、『元史耶律楚材伝などではアブドゥッラフマーン耶律楚材朝廷内の主導権巡って対立していたかのように記されるが、実際に両者の対立ドレゲネ及びファーティマ旧政権高官派閥抗争一環に過ぎなかったようである。 この時期アブドゥッラフマーン施策として特筆されるのが、従来正税(常賦)の他に別途銀7両を徴収する「7両包銀制」を導入しようとしたことである。これは、従来軍役負担など(差役)のない一般民戸地方税的なものとして治めていた税を国税として一本化し徴収するのであるが、あまりに民にとって大きな負担であるとの批判寄せられ導入には至らなかった。しかし、後に第4代皇帝モンケ即位する漢地総督復帰したヤラワチの下で徴収額を1両減らしただけの「6両包銀制」が正式に導入され以後大元ウルスの時代にも「包銀制」として定着したまた、西方ペルシア語史料にはモンケ・カアンが即位にあたって民の負担を減らすためヤラワチ税法」と呼ばれる統一税制導入したことが記録されているが、この「ヤラワチ税法」こそ漢地における「包銀制」の原型他ならない明らかにされている。つまり、「7両包銀制」はアブドゥッラフマーン独創にかかるものではなくヤラワチ中央アジア始めた制度漢地採用した過ぎずモンゴル帝国にとって「包銀制」の導入既定路線であったことには注意が必要である。ただし、ヤラワチ導入した「6両包銀制」でさえ民の負担大きいとして実施から5年目で4両に減額(更に、1両分銀納でなくてもよいとされた)されており、アブドゥッラフマーン導入しようとした「7両包銀制」が民に過酷な負担を強いるものであったことも事実なようである。

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