ドイツ民主党の結成
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帝政時代の進歩人民党(Fortschrittliche Volkspartei、略称:FVP)と国民自由党(Nationalliberale Partei、略称:NLP)の左派(国民自由党主流派はドイツ人民党を形成)が統合されて1918年11月20日に創立された政党である。革命後、いち早く共和政擁護・民主主義確立を訴えた知識人たちにより創設された政党であり、初代党首にはフリードリヒ・ナウマンが就任し、「進歩、成長志向の私経済、社会正義、寛容、同胞意識、そして個人主義」を標榜した。 ヴァルター・ラーテナウに代表される大資本家の支持を受けていたが、議会主義に立脚して調停者の役割を果たそうとしたため、ドイツ社会民主党(SPD)や労働組合の社会政策・労働政策にも協力的であり、中小資本家や都市中間層、知識人層、一部労働者層からも支持を受けていた。とりわけフーゴ・プロイスやマックス・ヴェーバーとアルフレート・ヴェーバーの兄弟など有名な学者たちが異彩を放った。 また大ドイツ主義(ドイツとオーストリアの合併)に最も熱心な党だった。これは大ドイツ主義の達成を1848年革命の完成とみる自由主義左派思想に基づく。とりわけナウマンら中央ヨーロッパ主義者が熱心な大ドイツ主義の推進者であり、ナウマンの死後もヴィルヘルム・ハイレ(ドイツ語版)、ゲルトルート・ボイマー(ドイツ語版)、テオドール・ホイスらナウマン主義者たちが大ドイツ主義を強く主張し続けた。 ヴァイマル共和政下最初の国民議会選挙で第3党の地位を獲得してドイツ社会民主党(SPD)のフィリップ・シャイデマンを首相とする連立政権の一部となった。ヴァイマール憲法もドイツ民主党所属の憲法学者プロイスの起草によるものだった。一時ヴェルサイユ条約への反対から連立から離れたが、すぐに連立に復帰した。以降、社民党と中央党と民主党は穏健左派・中道・リベラルの連立政権を組むことが多くなり、この3党の連携体制は「ヴァイマル連合(ドイツ語版)」と呼ばれた。 1920年6月の国会選挙ではもっとも凋落した党となった。民主党は前回の国民議会選挙で560万票の得票を得ていたのに、この選挙では230万票しかとれず、75議席から45議席に落とした。これは前回選挙では有権者は民主党を勝たせて民主主義国ドイツをアピールすればもっと寛大な講和条件で済むだろうと思っていたのに、そうはならなかったことから有権者は民主党を見限ったものと考えられている。またフリードリヒ・ナウマンが1919年8月に死去し、フリードリヒ・フォン・パイヤー(ドイツ語版)が老齢で引退するなど知名度の高い政治家を早期に失ってしまったこともある。 さらに民主党支持層にはユダヤ人が多かったため、反ユダヤ主義者から「ユダヤ人の党(Juden Partei)」と呼ばれて攻撃に晒された。人民党のシュトレーゼマンも「民主党は巨大な財源を自由にでき、全ユダヤ銀行がその背後にいる」と述べている。民主党はその後の選挙でも後退が続いた。 また民主党内は常に分裂していた。最高意思決定機関は議員団であったが、議員団には右派と左派があった。右派の議員は工業資本や銀行資本などに近く、党商工業委員会のメンバーであるベルンハルト・デルンブルク、ヘルマン・フィッシャー(ドイツ語版)、エドゥアルト・ハム(ドイツ語版)、オスカー・マイヤー(ドイツ語版)などが代表的人物だった。右派議員は富裕層が多いので党への政治献金を通じて選挙名簿作成に大きな影響力をもっていた。一方左派議員の代表的人物には労働組合関係のアントン・エアケレンツ(ドイツ語版)、グスタフ・シュナイダー(ドイツ語版)、エルンスト・レマー(ドイツ語版)やユダヤ団体関係のルートヴィヒ・ハース(ドイツ語版)などがいた。さらに両派の中間派としてエーリヒ・コッホ=ヴェーザー(ドイツ語版)、カール・ヴィルヘルム・ペーターゼン(ドイツ語版)、ゲルトルート・ボイマーらがおり、彼らが調停役の役割を果たした。 1924年以降はコッホ=ヴェーザーの指導が確立したが、彼は党内分裂状態を克服するためにも大連合政策を一貫して追求した。その戦術についてコッホ=ヴェーザーは1926年に次のように論じた。 私は共和国を護り、ヨーロッパ諸国の協調を求め、そしてライヒの統一とライヒ政府の力とを強化促進する連合を支持する。そしてこの意図は多数派政権によって最も確実に達成される。国家人民党はこのような目標設定に背馳するから、多数派政権としては大連合が唯一のものとなる。社民党が大連合を拒否すれば中道政権を、人民党が大連合を拒否すればヴァイマル連合を断固として試みなければならない この立場のため民主党は大統領内閣が始まる1930年までは国家人民党が政権参加する場合を除いて原則として常に政権に参加していた。
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