トヨタ自動車との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 00:33 UTC 版)
住友銀行は長らく住友グループの中核として先進的・効率的な経営で評価を得る一方、銀行の利益を死守するため、取引先企業の経営が傾き始めると容赦なく融資を引き上げるので「逃げの住友」と批判され、経済誌の顧客イメージランキングでは常に他行の後塵を拝していた。この体質が災いした後々に残る痛恨事として、1950年におけるトヨタ自動車との確執が挙げられる。 戦後の1948年から始まったドッジ・ラインに伴うデフレや鉄鋼の値上がりにより、1949年頃から自動車業界全体で不況が始まり、トヨタ自動車(当時・トヨタ自動車工業)も経営危機に陥った。『トヨタの倒産は東海地方の経済に危機的状況をもたらす』と判断した日本銀行名古屋支店長・高梨壮夫(のちに日銀理事)の斡旋により、帝国銀行(のちの三井銀行→さくら銀行)・東海銀行(後のUFJ銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のため、トヨタ自動車販売株式会社を設立させる再建策が決定された。しかし、当時、帝銀・東海と共に主力銀行の一つであった住友銀行(当時は大阪銀行)は、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」とにべもなく峻拒、貸出金の回収に走り、取引を打ち切った。当時、トヨタとの取引銀行は都市銀行・地方銀行含め25行あったが、取引を断絶したのは住銀のみである。 倒産という最悪の事態を回避するため、トヨタに対して日銀や住銀を除いた取引銀行による協調融資団による再建策の一つとして、前述のとおりトヨタ自動車販売株式会社が設立された。さらに再建策の一つとして、1600名の人員整理(社員の首切り)が発表された。これに対抗して組合側は無期限のストライキに突入し、労使間対立が先鋭化、労働争議へと発展した。その後、実質的創業者の豊田喜一郎はこの労働争議の責任を取り社長を辞任した。組合側も断腸の思いで首切りを受け入れた。そして住銀との交渉過程や労働争議での心労がたたったのか、豊田は1952年3月に急逝した。 その後、朝鮮戦争勃発による特需景気をきっかけに、トヨタ自動車は順調に経営再建を果たし、日本を代表する製造業となった。再建策をまとめた高梨は日銀理事を経て、後にトヨタの強い推薦で日本自動車連盟初代会長に招かれた。また、帝銀の支援をきっかけにトヨタは三井グループ入りすることになる(もっとも、豊田家と三井家は経営危機以前より縁戚関係にあった)。反面、取引を断絶した住銀に対しては、豊田喜一郎の後任社長である石田退三や歴代のトヨタ社長が取引再開を許さず、加えて名古屋を中心とする東海経済界では「住銀はいざとなったら頼りにならない」との風評が広がり、中京地区で住銀が苦戦する遠因となった。 なお、トヨタの経営危機から15年後の1965年、当時業界6位で経営危機に瀕していたプリンス自動車に対して、同社のメインバンクである住銀の頭取・堀田庄三は専務・小川秀彦をプリンス自動車社長に派遣し、トヨタへの救済合併と取引再開を画策した。しかし、当時のトヨタ会長・石田退三は「鍛冶屋の私どもでは不都合でしょうから」とこれを拒否している。15年前の経営危機の際、喜一郎が緊急融資に駆けずり回る中、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」と言い放ったのが、他ならぬ当時の住銀名古屋支店長・小川であり、融資担当常務・堀田であった(結局、プリンス自動車は1966年、日産自動車に吸収された)。 トヨタ自動車と住友銀行との取引再開が本格化するのは、三井銀行の後身・さくら銀行との合併により三井住友銀行(存続会社は住銀)が発足してからである。ただし、SMBC発足の際には、トヨタに対しかなりの根回しがなされた。
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