トゥーレ発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:55 UTC 版)
ストラボンはポリュビオスの「ピュテアスは自分が世界の果てまでヨーロッパの北方地域全体を探検したと断言している」という文章を引用している。ストラボンはこれを信じていなかったが、ピュテアスが世界の果てと述べた意味を解説している。その中で「トゥーレ」(Thoulē) がブリテン諸島の最北端にあるとしている。そこでは夏至に太陽が沈まなくなるという。これはピュテアスが北極圏に到達したことを意味すると思われるが、ストラボンはピュテアスが嘘つきだということを示すためにあえて触れている。 トゥーレはブリテンから北に6日間帆走した位置にある島とされており、凍結した海(pepēguia thalatta =「凝固した海」)に近いという。大プリニウスは太陽がかに座に位置する夏の間は夜が訪れないと記しており、やはり北極圏であることを裏付けている。さらにトゥーレへの航海の始点が Berrice という島だと記しており、「一番大きい」という記述からアウター・ヘブリディーズ諸島の最大の島ルイス島を意味すると見られている。Berrice がアウター・ヘブリディーズ諸島にあったとすれば、そこから出発した場合にスカゲラク海峡を見落としてノルウェーのトロンハイムあたりに到達したことも十分ありうる。このような航路を辿ったとすれば、ピュテアスがブリテン諸島を実際には一周せず、より広範囲を航海してドイツ沿岸に沿って帰ってきたとも考えられる。 トゥーレの位置を明らかにしようと後世の地理学者が試みたが、データに不整合があり、クラウディオス・プトレマイオスの地図でスコットランドが大きく歪んでいたことにも惑わされた。ストラボンによれば、エラトステネスはトゥーレの緯度をポリュステネース(ドニエプル川)河口から北に11500スタディア(1305マイル、16.5度)の位置だとしたという。この川の河口の緯度(緯線)はピュテアスも計測の基準としたケルティカ(ガリア)を通っている。マッシリア(マルセイユ)から北に3700から3800スタディア(5.3度から5.4度)の緯度を基準とすれば、トゥーレの緯度は64.8度から64.9度となり、北極圏にかなり近い。これはちょうどトロンハイムの緯度に近く、ピュテアスがそこに上陸したと推測される。 ゲミノスはピュテアスの On the Ocean について次のように引用している。 ……原住民は我々に太陽が沈むところ (the place where the sun goes to rest) を示した。その時期夜は非常に短く、せいぜい2、3時間で再び太陽が昇ってきた。 レナルト・メリはトゥーレがサーレマー島だという説を唱えた。これは "Thule" がエストニア語の tule(火)に対応するということと、カーリ・クレーターの起源にまつわるエストニアの伝承を根拠としている。カーリ・クレーターは「太陽が休む (The sun went to rest) ところ」と言われている。 ナンセンはこの記述について、ピュテアスが実際にそこに行き、夏至のころ昼が21時間から22時間となる緯度であることを示したものだとしている。彼はそこから緯度を64度32分から65度31分と計算し、ヒッパルコスのトゥーレの緯度に関する記述を支持した。また、ストラボンは次のように記している。 マッシリアのピュテアスは、トゥーレが最北にあると述べており、その夏至回帰線(天球に夏至の太陽が描く線)が極圏(天球のうち年中沈まない部分)と一致しているという。 エラトステネスは基準となる緯度をさらに北、マッシリアからケルティカに向かって5000スタディア(7.1度)の距離とし、ノルマンディーに基準線を置いた。ブリテンの北端とされたクライド湾はスコットランド北部にあるが実際には最北端ではない。ストラボンによるピュテアスの記述の解釈に適合させるため、クラウディオス・プトレマイオスは地図作成時にスコットランドを90度回転させなくてはならなかったという説もある。 5000スタディアは過大すぎるかもしれない。それではポリュステネース河口ではなくキエフのあたりの緯度になってしまう。しかしこちらを基準とすればピュテアスは確実に北極圏まで到達したことになり、ノルウェーで言えばロフォーテン諸島の少し南あたりになる。表面上はエラトステネスがケルティカの最北端を通るように基準線を変更したように見える。ヒッパルコスが述べているように、ピュテアスがケルティカ内で基準として引用した地は、彼が最初に上陸した場所だと考えられる。ノルウェーにおいても同様だと考えると、トゥーレはノルウェーのトロンハイムからロフォーテン諸島までの北西海岸のどこかだということになる。 探検家リチャード・フランシス・バートンもトゥーレを研究した1人で、何世紀にもわたって様々な定義がなされてきたことを指摘している。ピュテアス以外にも数多くの作者がトゥーレについて書いている。ピュテアスのトゥーレの位置は依然として不明である。古代の作家が示した緯度はほぼ一致している。位置を特定するのに不足しているデータは経度ということになる。 ピュテアスはブリテン諸島の北端の Berrice という島から北に向けて出発したが、その後真っ直ぐ進んだのか、左右どちらかに方向転換したのかも定かではない。ローマ帝国の時代から様々な著作家が様々な可能性を指摘してきた。アイスランド、シェトランド諸島、フェロー諸島、ノルウェー、グリーンランドといった場所がトゥーレではないかと言われてきた。大プリニウスの『博物誌』の写本によっては出発点を Berrice ではなく Nerigon としているものがある。このため Nerigon が「ノルウェー」に似ているということでトゥーレをアイスランドだとする説が有力視された。つまり、帆船がノルウェーから西に向かって出航すればアイスランドに到達するに違いないという論理だった。バートン自身もこの説を支持している。 標準的な文献では Berrice だが、Bergos や Vergos も列挙されている。その中には Scandiae という島も同列にあり、これらの島々がスカンジナビア半島の島だとする説にはやや難がある。さらにプロコピオスは、スカンジナビアは古くはトゥーレと呼ばれ、ゴート族の故郷だとまで記している。アイスランドはピュテアスの時代にはヨーロッパからの植民がまだ始まっておらず、トゥーレとするには無理がある。同じ理由でグリーンランドも除外される。ピュテアスがバルト海あたりから帰路に着いたという点はプロコピオスの見解に有利である。 トゥーレの原住民について、ストラボンはピュテアスの言をしぶしぶ引用している。 ……彼はことによるとこの点では実際に寒帯に近い場所に住む人々について事実を書いたのかも知れない……(トゥーレの)人々は雑穀、果実、根菜などを主に食べている。穀物や蜂蜜が採れる地域もあり、それらを原料として飲料を作っている。日が短いので、穂を倉庫内に集め、そこで脱穀する。日が射さず雨も降るので、屋外の脱穀場は役に立たない。 この記述は、納屋で脱穀する習慣があり、蜂蜜酒と思われるものを作っている農耕国を描いている。地中海地域では脱穀は屋外で行うのが普通だった。
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