スランソニーと結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:33 UTC 版)
「ウォルター・サヴェージ・ランダー」の記事における「スランソニーと結婚」の解説
スペインに行く前、ランダーはモンマスシャー(en:Monmouthshire (historic))のベネディクト会修道院の跡地スランソニー修道院(英語版)に土地を探し、そこに住むことにしていた。その購入資金を得るために、父親から相続していたルージリーの土地を売却し、母親にもタックブルックの地所を売るよう説得した。スペインから戻るときに、これらのことを済まそうと彼はせわしなく動いたのであった。前所有者は修道院の跡地に建物をいくつか建てていたが、これらの建物を取り壊して自宅を建てるには、1809年に法律が成立するのを待たなければならなかった(結局、家は建てられなかった)。彼は模範的な田舎紳士たるべく、木を植え、スペインから羊を取り寄せ、道路を補修した。 地域には「ランダーの松」として知られる松並木があり、多数ある栗の古木も彼の時代からのものである。 1811年、彼はバースで行われた舞踏会に行き、美しい女性を見かけ、「ここで一番の女性だ。結婚したい」と叫んだ。彼女はジュリア・テュイリエといった。彼女の父親は落ちぶれた銀行家であり、バンベリーでの事業に成功を収めることができず、バースに家族を残してスペインに行ったのであった。 1811年5月24日、二人はバースの聖ジェームズ教会で結婚式を挙げ、スランソニー修道院にしばらくの間居を定めた。ランダーは、ナイチンゲールとツチボタルを詠み込んで田園生活を描いた詩を手紙に書いてサウジーに送り、彼の訪問を受けた。しかし、その田園詩のような生活は長続きしなかった。以後3年の間、ランダーは、隣人や間借り人、弁護士や地方総監、聖デビッド主教(英語版)との間にもいざこざが起こって悩むこととなった。同時に、ジョン・バーナード・トロッターのお追従への返答として、フォックスについての記事を発表しようとしたが、出版を引き受けてくれるだろうと思っていたジョン・マレーにはこれは名誉毀損になると非難され、ジョージ・カニングとギフォードには散々にこき下ろされた。 隣人とのトラブルは、その多くが彼自身の強情で衝動的な性格から出たもので、始めは些細ないざこざにすぎなかった。彼は弁護士を雇ったが、その一人であったチャールズ・ゲイベルは、彼を金になる客だと思っていた。植木は引き抜かれ、材木は盗まれた。彼が和解しなければならなかった相手はしたたかに酔っ払い、彼は不幸をもたらしたと責められ、彼が誰かを盗みで告発したときには、被告の弁護士から侮辱を受けた(その弁護士には後にラテン詩で「懲罰」を加えている)。彼はラテン語やその他の詩句で報復するのを気に入っており、彼の弁護士についても下のような滑稽詩で論評している。 If the devil, a mighty old omnibus driver Saw an omnibus driving downhill to a river And saved any couple to share his own cab I really do think t'would be Gabell & Gabb. (大意)馬車が川へ真っ逆さまに走り落ちようとしているところを悪魔が見たならば、奴は巧みな御者だから、だれか二人連れを助けて自分の車に乗せたなら、そいつはきっとゲイベルとギャブだろうと俺は思うよ。 修道院を修復しようと申し出る内容のランダーからの手紙にトマス・バージェス(英語版)主教が返事をしあぐねたとき、ランダーは「私に2度同じことを要求していいほど偉いのは神様だけさ」と言ってこれをなじった。彼は知事になりたかったのであり、共和主義への忠誠が疑われていた地方行政長官ボーフォート公(英語版)といざこざを起こした後、彼はトーリー党強硬派として知られたジョン・スコット(英語版)と一緒になってこの問題を追及したが、不首尾に終わっている。土地を改良しようとしたり、酷い状態であった住居を改善しようと、彼は無駄な努力と金を払いもした。とどめになったのは、ビーサムという男に農地を貸したことであった。この小作人は無能であり、浪費家である上、小作料を支払わなかった。ビーサムから受け取るべき金を取ろうと訴訟を起こしたりもしたが、最後には田園を離れることにし、スランソニーの地所を出資者――主として母親――に任せることにした。 この時期、彼は『チャールズ・フォックス氏回顧録への注釈』(Commentary on the Memoires of Mr. Charles Fox)なる大部の原稿を執筆し、この急進的なホイッグ党員を肯定的に紹介し、米大統領ジェームズ・マディソンに献辞を付けるとともに、トーリー党政府とカニングに強烈な批判を浴びせている。しかし、この原稿は罪に問われる虞があるとして出版されずに終わった。 1814年、ランダーはイングランドを離れてジャージーに出掛けたが、そこで妻とけんかとなり、一人でフランスに発った。偶然にもトゥールで妻と再会、弟とも落ち合った。また、同地ではオーガスタス・ハレ(英語版)の父であり、ジュリアス・ハレの弟であるフランシス・ジョージ・ハレとも対面、後に彼はランダーを助けることになる。ランダーはトゥールにもすぐに不満を感じるようになり、大家と重大な軋轢を生じたこともあり、1815年9月、妻と弟を伴って、イタリアへの波乱の旅に出た。
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