スイスへの亡命 1914 – 1921
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「アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー」の記事における「スイスへの亡命 1914 – 1921」の解説
ドイツが外国人の国外退去を促すようになると、ヤウレンスキーとヴェレフキンはメイドのヘレーネ・ネスナコモフと息子アンドレアスを伴ってスイスへ移住した。さしあたり、レマン湖沿いの町サン・プレ(フランス語版)で質素な生活を始めた。この時からヤウレンスキーは、これまでヴェレフキンが提供していたぜいたくな生活に別れを告げざるを得なくなった。小さな彼の居室で、窓辺に座り、レマン湖の風景の素晴らしさに思いを巡らせていた。湖、木々、そして茂みといった絵画のモティーフが、ありありと浮かび上がってきた。例えば、「道 (Der Weg)」(CR 644)は連作のさまざまなヴァリエーションの基本となる作品である。時の経過とともにヤウレンスキーは、自然から切り取られた細部に、暗喩としての目に見えない感情や魂、精神の世界を発展させていった。連作のはじめの作品を仕上げたとき、ヤウレンスキーはそこに「無言歌集」をみていた。正式なタイトルとして彼はこの連作を「風景の主題に基づくヴァリエーション」と名付けた。彼自身ははじめから大連作とする構想はなかったものの、これをもってヤウレンスキーは画家として更なる成長を遂げた。こうして描かれた一連の絵画は、彼の独自性が前面に現れた作品の先駆けであった。こうして、かつての表現主義者はしだいに色彩とフォルムとに新たな価値を与えていった。連作ヴァリエーションの最終作は「秘密 (Geheimnis)」(CR 1166)という作品であった。 1916年、ヤウレンスキーは新たな女性と出会った。それは、25歳の若いガルカ・シャイアー(ドイツ語版) (1889 - 1945)であった。彼女はその後、支援者としてのヴェレフキンの役割を引き継いだが、ヴェレフキンの時とはまた違った関係を築いた。ヤウレンスキーは契約として作品を売却した収入の45%をシャイアーに支払わねばならなかったのである。 1917年9月の終わりごろ、ヤウレンスキーとヴェレフキンは使用人とともにチューリヒのヴォリスホーフェン区(ドイツ語版)に移り、そこで「不思議な頭部」の連作を描き始めた。それからヤウレンスキーははインスピレーションの導くがままに、人間の顔を描き続けた。たいていは、女性の頭部が画題となり、強い色彩がところどころに際立っていた。例えば肖像画の「ガルカ (Galka)」(CR 880)がある。1917年を通してヤウレンスキーは顔を描き続けたが、それらはすべて異なるものであった。ヤウレンスキーはそれらの作品を「キリストの頭部」と呼んだ。これらの絵は、鋭い髪の房によって他の絵と簡単に区別できた。額の上で幾度も十字に交差する髪の房はキリストの象徴である茨の冠になぞらえられた。例えば、「キリスト (Christus)」(CR 1118)や「やすらかな光 (Ruhendes Licht)」(CR 1149)がある。CR中には同様の作品が64点挙がっている。このモティーフは1936年までの全ての作品群にみられ、例えば1936年3月の「瞑想 N.16 (Meditation, März 1936, N. 16)」(CR 1848)がある。 1918年の春にはヤウレンスキーはティチーノ州マッジョーレ湖畔の町アスコナに移った。そこでヤウレンスキーは「不思議な頭部」の絵を、徐々に新しい頭部の連作、「救世主の顔」へと発展させていった。これらの絵には肩が無く、首筋が暗示されているだけであり、具体的な世界とのつながりは広範にわたって削られていた。まだ顔はどれも真正面を向いておらず、右か左に傾いていた。構成のイメージに応じてヤウレンスキーは画中の頭部の目を開けさせたり(CR 1072)閉じさせたりした(CR 1146)。この定型表現は、1928年(CR 1456)まで何度も現れている。 1920年にヤウレンスキーはアスコナからヴェネツィア・ビエンナーレに「3つの救世主の顔と2つの新しい顔」を出品した。ちょうどそのころ「抽象的な頭部」の連作制作をはじめて、救世主の顔を発展させた。ヴァリエーションの変化に大きな効果を生み出すために、個々の作品には目に明らかな最小の変形のみが加えられた。首筋の暗示は放棄され、「頭部」の絵は具体的な人間の姿からはどんどん遠ざかった。すべての「抽象的な頭部」は顔の輪郭が紋章様のU字型を成しており、常に正面を向いて目を閉じていた。例えば(CR 1293)や(CR 1355)がある。この統一的な表現形式は、以前の「頭部」よりも対称さが増している。絵画を構成する要素の形態は、際立つ完全な円形と大小の円の一部とが対比される。1920年の5月から7月の間にヴェレフキンとヤウレンスキーは、ミュンヘンのふたりの相部屋の賃貸契約を解消した。ちょうどそのころ、ヤウレンスキーはハンス・ゴルツ画廊で個展を開催している。ゴルツは画廊の機関紙「アララト山」のなかで、新作の絵画技法について記しているが、これについて現在でも真偽の意見が分かれている。それは次のような記述であった。(※注 小括弧 (○○) は引用者による補足) 「すべての (ヤウレンスキーの新しい) 作品は…[中略]…フランスの油紙に油絵の具で描かれている。 — 1920年7月「アララト山」第8号73頁より引用者翻訳 一方で、ヤウレンスキーは早くとも1914年にスイスに亡命してから「亜麻布紙」をカンバスとすることを知り、この時から頻繁に制作に用いるようになった、とする見解があることで議論となっている。
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