ガス灯の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:46 UTC 版)
1909年(明治42年)10月、中国地方最初のガス会社として広島瓦斯株式会社(現・広島ガス)が設立された。同社は翌年10月、市内へのガス供給を開業する。当時は不況期であったものの需要開拓は順調であり、開業4か月後にあたる1911年1月末時点では約1万個のガス孔口を取り付けていた。この当時のガスは炊事などの熱用よりも灯火用すなわちガス灯利用が主体であり、広島瓦斯の場合も全孔口数の3分の2が灯火用であった。ガスマントル開発以後のガス灯は、発光部分(フィラメント)に炭素線を用いる白熱電球(炭素線電球)に比べて明るく、電灯に対して競争力を持っていた。広島瓦斯では市内中心部から順次市内西北部や佐伯郡己斐町・安佐郡三篠町など市外にもガス導管を延長するとともに、尾道市・呉市にも進出している。 こうして順調に事業を拡大した広島瓦斯であったが、1910年代半ばになると一転苦境に陥った。その原因の一つは第一次世界大戦勃発に伴う原料石炭(当時のガスは石炭ガス)価格の高騰である。そしてもう一つは、水力発電とタングステン電球(フィラメントにタングステンを用いる電球)の普及に伴う電灯の競争力向上であった。従来の炭素線電球に比べて消費電力が小さいタングステン電球は、広島電灯では1914年(大正3年)10月より定額灯で全面的に採用されている。前年10月の料金改定とこのタングステン電球制の導入に伴う改定で10燭灯の場合月額55銭まで引き下げられた。1909年からの5年間で電灯料金が大幅に引き下げられたことでガス灯に対する電灯の優位は決定的となり、以後広島瓦斯のガス事業は熱用主体に移行することになる。 全国的なガス事業の動揺の中、広島瓦斯は1917年(大正6年)8月、市内で路面電車を運転する広島電気軌道を合併し広島瓦斯電軌となり、ガス・電車兼営という独特な企業となった。合併した広島電気軌道は1912年11月の開業。路面電車の電源は市内千田町に構えた自社火力発電所であり、大正末期に広島電気からの受電へと転換するまで電力会社との関係はなかった。 後身の広島電気時代のことであるが、広島瓦斯電軌が電気供給事業進出を企画したことで、1922年(大正11年)から翌年にかけて広島電気と広島瓦斯電軌との間で対立が生ずることになる。
※この「ガス灯の出現」の解説は、「広島電灯」の解説の一部です。
「ガス灯の出現」を含む「広島電灯」の記事については、「広島電灯」の概要を参照ください。
ガス灯の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 21:10 UTC 版)
「中部電力 (1930-1937)」の記事における「ガス灯の出現」の解説
岡崎電灯が事業規模を拡大した1910年代初頭、岡崎では電気事業に続いて都市ガス事業が起こされた。電気事業と同様に地元資本で起業された岡崎瓦斯株式会社(2003年東邦ガスへ合併)によるものである。 岡崎瓦斯の起業は、旧岡崎藩御用商人の流れを汲む岡崎財界の名士たちを中心として進められた。会社の設立は1910年(明治43年)4月のことで、資本金は20万円、社長は呉服商の千賀千太郎、取締役は深田三太夫らが務める。千賀・深田は当時の岡崎を代表する大資産家であった。同社は岡崎市街の康生町・材木町・連尺町・籠田町・伝馬町・上肴町・六地蔵町にガス管を敷設し、1911年1月1日に開業した。 岡崎瓦斯の開業当時、都市ガスの用途はガス燃焼による照明すなわちガス灯が熱利用よりも主体であり、街灯のみならず屋内灯としても広く需要があった。明治末期のころまで、ガス灯は電灯に対する競争力を十分持った照明であったためである。これは、当時の電灯で使われた白熱電球は発光部分(フィラメント)に炭素線を用いる炭素線電球であったが、消費電力が大きく、ガス灯と比較すると同じ明るさをともすのに2倍の費用を要したことによる。従って経済性に安全性が加味された場合にのみ電灯が優位に立つという状況であった。 ところがガス灯の優位はフィラメントに金属線特にタングステン線を用いるタングステン電球が出現すると崩れ去った。タングステン電球は炭素線電球に比べ長寿命・高効率であり、消費電力が約3分の1に低下したことで明るさ当たりの費用もガス灯より若干廉価となったためである。金属線電球の採用時期は事業者によって異なるが、岡崎電灯では1912年末時点で炭素線電球と金属線電球の比率は1対3となっている。こうした流れの中、岡崎瓦斯では開業後しばらくガス灯数を増やし続け1914年(大正3年)5月末には灯火用孔口数2,736口を数えたが、これをピークにガス灯需要は減退に向かう。その後は熱利用への転換が進み、大正末期になって灯火用孔口数は熱用孔口数を下回った。 なお、千賀千太郎・深田三太夫の両名は長く岡崎電灯の役員ではなかったが、1922年12月にそろって監査役に就任している。
※この「ガス灯の出現」の解説は、「中部電力 (1930-1937)」の解説の一部です。
「ガス灯の出現」を含む「中部電力 (1930-1937)」の記事については、「中部電力 (1930-1937)」の概要を参照ください。
- ガス灯の出現のページへのリンク